
創作メモ
やはり女性か……修験者は困り果てていた。殿様から命を貰ったはいいが、目付けの弁天殿の足が遅くて難儀する羽目になった。最初の半刻程度……いや、四半刻まではやかましい程であったが、一刻もすると目に見えて足が遅くなった。
普段天狗や山の鹿、猪と戯れている修験者である。験力や御仏の加護以前に足腰は非常識に頑健である。無論歩く修験者を走って追い抜けぬわけではない。ただ単に歩速が落ちず、休憩が不要なのだ。走って追い抜いてもいつの間にか再び抜かれてしまう。彼が歩く山は現代日本の一般的なレジャー用に登山道が整備された山ではなく、獣道や獣すら通らぬ山中。別に山道を避けて歩いている訳ではなく、修験者の住む辺りに来る人間は殆どいないのだ。偶に迷い込むものがあっても烏天狗がちょっかいをかけて追い返してしまう(そして天狗が出るとの噂でより人が近付かなくなる) 藪漕ぎも崖もない平坦な道など彼にとって家の中も同然だった。
更に言うと、修験者はその生涯の中で人と同道すると言う経験がほぼ無かった。数少ない経験も他の修験者などの同輩。故に里のものとしては驚異的に足腰が頑健な弁天が遅いのは女性だからと錯覚した。こんな歩きやすい道を難儀する理由が分からない。
なんとなく弁天が悲壮な気持ちで付いてきているのは分かる。彼は道端の杉の木の枝を一本山刀で切り落とし、小枝を払って綺麗に樹皮を剥がし、表面に小刀で韋駄天の像様を刻み込もうかと手を動かし始めた所で、辞めた。弁天が髪を振り乱して凄い目でこちらを睨み、それを遠巻きに眺める数人の旅人を見たからである。旅人達は修羅場を期待していた。豪壮な山伏を男装の女性が髪を振り乱して(旅人達から見たら)驚異的な速度で追いかける。どう見ても酒の肴になり得る醜聞だ。心の中でチリンチリンと小さな鈴の音色が響く。彼が死地にいる時の神仏からの注意せよ通達である(社会的にヤバい時しか鳴った事はない)
修験者は立ち上がると杖を弁天に手渡し何事か唱えた。弁天含めた聴衆が何?と身を乗り出した刹那に大声を上げる。
「六根清浄! 内外清浄! 貴様まだ修行が足りぬ。我は先に行く故後からゆるりとついて参れ!」
(縮地か?)との弁天の心の声に、縮地って何ぞ?と思いつつ修験者はまじめくさった顔で返す。
「これは神仏の加護でも験力でもない。ただの修行じゃ。足腰の鍛錬じゃ。その様な足では山で熊は追えぬ。鹿も追えぬ。兎すら怪しい。杖をやる故ついて参れ!」
そして、修験者は……逃げた。先にも増して一本下駄で道を急いだ。彼女が目付けとして修験者を見張らなければならないと言う使命は無視した。修験者の行動に関しては神仏なり閻魔大王に尋ねれば良い。大体……まぁ大体彼は無実である。稀に勘違いによる問題は無いでもないが、概ね彼は修験者として並み以上、世間一般にも善人である。腹ペコで遂にはイワナやヤマメを取って食おうとすると絶妙のタイミングで取り損ね、三種の清肉しか食せぬ星の下に生まれている。
「そ……その調子では……」弁天は何事かを訴えようとしたが言葉は続かなかった。あの調子で歩いたならば宿場を通り過ぎてしまう。無論修験者は「雨が降る訳でもなし、野宿じゃ」ぐらい言いそうだが、実際には夜通し歩けば良かろうと考えていた。現代でも千日回峰行で京都大回り84kmを100日間毎日歩く僧侶もいる。修験者にとっては平地(と言っても現代の基準から見ると幾分うねってはいるが)を走破することなど苦ではない。
突如修験者が戻って来ると、安堵の顔を浮かべた弁天にこう告げる。「ああ、長島郷に行くのでその様に」「……そ……そ……そこに……何か……あるのか?」「うむ、美男美女揃いの村がある。もし人攫いが出るならあの辺りであろう」
修験者は自信満々に答えた。勿論弁天も「傾国」の噂ぐらいは知っている。しかし、美男美女が拐われていると言う話の調査で拐われた人物の足跡ではなく、これから拐われるに違いないであろうと山を張る考えは無かった。いや、もしこれがたまたま美男美女が拐われただけで、攫う側には別に美男美女に拘る必要が無かったら……思案して息を整える間に修験者は彼方まで歩き去っていた。あの調子で海まで歩いて渡る気か。
弁天は案外簡単に修験者には追いついた。修験者は茶屋で湯漬け(丼飯にお湯を掛けただけのもの)を三杯平らげ、悠々と(薄めの)茶を飲んでいた。弁天を見つけると手招きして呼び支払いを任せ……まで告げた所で杖で叩かれた。無論弁天に、である。
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