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穴部瑠璃 原稿その2
「江戸川さま。最近ね、山口屋さんの奥様の顔色が悪いの……」
江戸川少年には心当たりがあった。確か商っている野菜が長雨で腐ってしまって、少々商いが上手くいって居ないのだ。だからと言って値上げなどすると町衆が難儀する。寄って山口屋は皆を悲しませない為、ひいては瑠璃の笑顔を絶やさぬ為に自らが飢える選択をしたのだろう。この界隈では良くある話で、敏感な瑠璃はこの事を感じ取ってしまう。奥方は健気に笑って居たはずである。しかし瑠璃は顔色の奥を読む。
2人の会話に耳をそば立てていた人夫風の男が席を立ち、急いで勘定を済ませると足早に立ち去った。
「親分、山口屋がヤバい。瑠璃さまが勘付いた!」
「銭持ってこい、あと卵だ」
「へぇ!」
「質屋は?」
「八郎兵に」
ヤクザものらしき男衆が暗躍を始める。彼らは漁港で荷揚げなどを行う人足集団で、今では瑠璃組を名乗るヤクザである。その名からも分かる通り、彼らは普通に義理人情を尊ぶ任侠であったが、幼き日の瑠璃に出会ってから更に過激な任侠集団となり、瑠璃の顔を曇らせる事態を人知れず解決してきた。
「馬鹿野郎! 自分が苦しめば瑠璃が喜ぶと思ってンのか! 食え! そして休め! 瑠璃ちゃんを悩ませてはいかん!」
ヤクザものがヤクザ口調で恫喝する。身体を労われと恫喝する。
「あれ程大丈夫なのかい? 食えているのかい? と聞いたじゃないか。なんでそんな無理を……いいんだよ、証文にも『無理せず』と認めただろう……」質屋兼金貸しが狼狽して説得を始める。この地で結果的に瑠璃の顔を曇らせた人間の行く末は悲惨だ。アイツが瑠璃ちゃん泣かせたと知れ渡った日には当地で生きていく事は出来ない。無論山口屋も金貸しが難儀すると瑠璃が悲しむと思って無理をしたのだ。賢者の贈り物めいた幸せな行き違いであった。
「ここはこの権蔵が預からせてもらう。ワシが仲介する故山口屋は無理をするな。絶対無理はするな。瑠璃は聡い、理解しちまう。なぁに山口屋なら直ぐに立て直すさ。心配はしとらん。皆瑠璃を悲しませまいとした事だ。ワシゃー心底嬉しい」
実際問題、瑠璃組は封建社会の中で共産的制度を推している様なものだ。不具合を解消し銭金で済む問題は組の銭で粗方解決してしまう。この村では殆ど需要がない海産物を瑠璃の実家に納めて干物として売買することを勧めたのも権蔵である。肥えた魚は高値で売れ、その商いで得た金を瑠璃組が適切に分配する。村は着実に、そしてゆっくりと豊かになっていった。それが何によってもたらされたかを知るからこそ村人は瑠璃を大切にした。
その幸せの漁村にも稀に暗雲垂れ込める事がある。瑠璃を見物に近隣のものが訪ねて来る事があるのだ。彼らは伝え聞く「傾国」瑠璃の美しさは知っているが、それが村人にどのように愛され、実際人々を豊かにしてきたかは知らない。また、村人には言うまでもなく自明のことを、当然村人以外は知らないのだ。
「あっ」
「どこ見てんだ小娘!」
蕎麦屋から出てきた瑠璃にぶつかった見知らぬ若衆が啖呵を切る。切った瞬間に娘の美しさに目を奪われ、頭は鬼の様な節くれだった手に捉われる。
「どこ見てんだってのはこっちのセリフだ、ヒョウロクダマが」明確な殺意が若衆に降り注がれた。瑠璃に山口屋の顛末を伝えに来た権蔵だ。蕎麦屋の主人は蕎麦ののし棒を持って構えているし、向かいの桶屋の女将は瑠璃に駆け寄り大丈夫かと声を掛けた。江戸川少年はアワアワしている。俺が先に出て手を引いていれば……
「権蔵さん、瑠璃は大丈夫ですから……」
「お嬢、大丈夫で何よりですが、こいつの頭は大丈夫そうじゃねぇンで……」権蔵は相合を崩したが、手の力は増した。一晩ほど海際の松の木から吊るすか、伊達にして返すか……生かしてどんな目に遭わされたか喋らせた方がマシだろうか。死なせても良いかと思うが。何より村衆が俺も俺もと瑠璃の為に制裁を加えたら……どうせ死んでしまうだろう。殺生の咎を受けるのは瑠璃組の連中だけで良い。
「権蔵、狼藉はいかんぞ」領内の町奉行の様なお役である侍が権蔵を咎める。普段は権蔵のやる事には口出しをせぬ男で、権蔵が無体をしない事ぐらい重々承知している御仁であるが、そこに瑠璃がいた為だろうか……珍しく声を掛けてきた。
「いや、親分は瑠璃ちゃんにぶつかって来た男を捕まえただけで……」蕎麦屋の主人が助けを入れる。権蔵はこの若衆の命運が尽きたことを理解した。
「死罪じゃな」侍は即答した。「晒すか」
権蔵はあの形で優しかった。流石の瑠璃組組頭でも晒し首まで思考を飛躍させる事はない。そも晒し首なんぞにしたら瑠璃が悲しむ。しかし侍は厳しかった。見知らぬ男となれば恐らく此奴は天草辺りから来た者であろう。古来、この地は長島氏の所領であったが、島津が近年接収したのである。徳川の世ともなれば領地問題は基本的に発生し得ないが、島津家中の人間としては天草の連中が領内に勝手に侵入して狼藉を働くのは看過し難い。(だからと言ってぶつかっただけで晒し首は尋常ではないが) まぁ、侍の上司に当たる地頭が地頭仮屋を鷹巣に移す際に、重ね重ねて「瑠璃を守れ、瑠璃は長島の宝じゃ」と念押ししたのも効いている。
瑠璃が権蔵の顔を不安げに覗いた。この方どうなってしまうの? 権蔵は胸を締め付けられた。このままではこの男は死ぬ。と言うかどちらにせよ死ぬ。瑠璃が悲しまない方法は……ああそうだ、小さい頃瑠璃は浦島太郎や桃太郎の話を何度も母にせがんでいた!
「あれ? お前……浦島?」小芝居である。
「は?」
「どうした権蔵」
「いや、その……この前沖合で亀に遭いまして」
「ほう?」
「なんでも地上に帰った浦島が、乙姫さまに手紙の一つも出さないって話でしてね」
「薄情な奴よのぉ」
「浦島見つけたら竜宮まで送り届けて欲しいと頼まれたンでさぁ」
「え、え?」
「お前、浦島太郎だろ?」
「ほほぅ」そう来たかと侍は合点した。「それは大事じゃのぅ」
「すいませんが、おいらチョイとこいつを竜宮まで送って来ますわ」
「すぐに竜宮城まで着く様、石を抱かせてやると良い」
「そんな……この方溺れてしまいます……」
「お嬢、こいつ浦島だから」
「そうそう、浦島太郎が溺れるわきゃーない」
「乙姫さまがお待ちじゃ。船を出すぞ!」
「へぇ!」
「……そうなんだ……」瑠璃は不思議そうな顔をして得心した。得心しようとした。
「す……好いたもの同士、仲良くするのがいいと思う……よ?」江戸川少年は全てを察した。拐かしが横行する中、実行犯は天草方面ではないかとの噂もある。天草方面では仕方がない。
「浦島様のお通りじゃ! 竜宮城へのご帰還じゃ!」
古い祭り歌を歌いながら男衆が浦島太郎を担いで港に向かう。補陀落渡海の変形で、当地では罪人などの人身御供を竜宮城へ送る「竜宮送り」なる奇習があった。その為この地の魚は人を食っていると言うので漁村では海産物をあまり食さず、干物として他領に販売する。最もこの地の魚が美味いのは海流や漁場の豊かさ故であり、数年に一度人を海に放り込んだからではない。
その風景を険しい顔で見つめる男装の麗人がいた。今は弁天と呼ばれている女間諜であった。そして港を見下ろす小高い峰の上には「修験者の格好をした忍びの密命を帯びた修験者」と言うめんどくさい男が居た。前者は主に旅の疲れから、後者は遥か遠くの出来事故に顔を顰めて目を凝らしている。
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