
感情の襟首を掴んで引きずりながら、思考は足早に進んでいくばかりだった
相手の目を見て微笑みながら頷いて、内心は否定していた
それぞれの感情、思惑
相手を受け止められる柔らかさも、撥ねつけてしまえる強固さがあるわけでもなく
自分の心を押しやるように微笑みを作る
相手から嫌われないようにとそうしているのに、自分は相手を少しずつ嫌いになってゆくのだ
感情は違うと主張している、けれど思考は相手に合わせようと感情の偽装を働く
感情はそれが許せなくて、思考にしがみついて必死に訴えかける
思考は「これが正しいんだ」と、感情を冷たく振り払う
お前はもっといじめられたいのか
そんなにひとりぼっちになりたいのかと
無責任な感情を殻の中に閉じ込める
微笑みの下に隠した余計な葛藤が露見して、相手の機嫌を損ねないように
不自然な間も、わざとらしい演技もあってはならない
まるで自分も初めからそう思っていたかのように
ばれることが怖いから、もっと上達しなければと
いつしか、相手の思考に自分の思考を完全に同化させようとしていた
観察し、分析し、改善を繰り返す
自分と相手とを並べて、比べていく作業
次々と出てくる相手との違いを修正し、馴染ませる
相手の傾向を掴んでいくことで、次第に相手を見透かしている感覚を持ち始める
自分から他人の思考に支配されようとしているのに、呑気に優越感なんて感じて
私はあなたの思っていることが手に取るようにわかる、と
けれど作業が進むにつれて相手を見透かしているつもりが、
いつのまにか相手を通して、見るつもりなどない自分自身の姿が見えてきてしまうのだ
何が違うか、どう違うのか
どこまで受け入れられるか、なぜ受け入れられないのか
相手を色んな角度から眺めて
相手の言動に対する自分の解釈が、自分の見方を変えるとどう変化するか
それは自分自身を色んな角度から見ていることにもなるわけで
つまり自動的に相手を通して自分の本質が見えてくる
知らぬ間に向き合っている
どこまで突き詰められるか
本質に辿り着くために相手の殻を壊していく作業
色んな解釈を試しながら丹念にこつこつと叩いていくうちに、
ある解釈によって分厚い殻にピシッと小さなひびが入る
その一か所からひびを拡大するように、さらに子細に観察して、違った見方を試してはまた一つ解釈を与えていくことを繰り返す
そうして細かいひびを殻全体に作ってゆく
こんな地道な作業を辛抱強く続けられるのは、単なる好奇心や必要性からだけではなく
そこに相手の欠点や弱点を突き止めてやろうとする歪んだ意思が存在しているから
丸裸にして暴いてやろうという自分の内に潜む攻撃性や、傲慢さのおかげで面倒や疲れをさほど感じなくなる
それが見透かしているという自惚れや、浅はかな優越感を生み出したものの正体で
これがもし最初から自分の殻だとわかっていたなら、一か所のひびを入れることすら出来ないに違いない
自分の殻を内側から打ち破ることの難しさ
生半可な思いではやり切ることなど到底出来ない
殻を破るどころか、その決意を本気ですることすら難しい
他人から自分を守る為にある殻を、わざわざ壊すのだ
大きなリスクを冒すことになる
それでも未来を変えたいという強い願望と覚悟
そこには強烈な向上心が存在しなければならない
もしくは殻を破らなければ生き残れない切迫した状況に追い込まれた時であっても、揺るぎない希望を持つ強さが必要で
絶望するような人間には絶対に殻を破れない
だから大抵の人は本気で殻を破ろうと決意出来たとしても結局、さんざん足掻いた挙句に殻を破れぬまま、殻の中で死んでいく
それぐらい難しいことだから
けれど悪意を持って相手の隠している弱みを見てやろうと、外側から殻を割るのならばこんなにも上手くいってしまう
ポロポロと剥がれやすくなった欠片を一つ一つ丁寧に剥ぎ取って
相手の殻を一枚剥ぐ度に、自分の殻も剥がれ落ちていることに私は気付かない
だんだんと浮き彫りになってくる核心的な違い
その違いの中に本当の自分がいる
向き合っているということに気付けぬままに向き合って
見えていたのは、殻の中に閉じ込めたはずの自分の本当の姿だと知らずに
それを相手のものだと思い込んで嫌悪している
都合よく割り切られた矛盾、強引な屁理屈の上に成り立つ利己主義
気まぐれに差し出してしまう上辺だけの親切心を見抜いて、薄っぺらいなんて見下したりして
自分の事だとわかっていないものだから、いい気になって軽蔑している
実は背伸びしていることも、なんとか改善したいのにどうにも直らない悪い癖も、
全部、剥き出しで
窮屈に仕舞い込まれていた自分の本心に眉を顰めている
他人と同じように上手くやろうとして、出来なくて、悩み苦しんできたこと
譲らなければいけないのに譲れなかったもの
でもそれこそが偽れない部分
唯一、嘘のない自分
突き詰めて、突き詰めていくと、そこに見えてくるありのままの感情に唖然とする
自分を殺して、殺して、殺していった果てに、どうしても殺せない自分がいた
自己を押し殺し続け、相手に限りなく同化していくと、そこにはどうしても同化できない部分が現れて来る
それこそが余計なものを全部削ぎ落とされた自分自身の本質だった
いくら隠そうと、どんなにすり寄せようと、どれだけ飾ろうと、それが剥がされてしまえば
そこにどうしても出てきてしまう「違い」、「差」がそのまま私の「核」として私を形成していることに気付かされる
相手の真実を見極めるためには自分の中の偽りを見極めなければいけない
無意識に他人に投影していた自分の本当の姿は、あまりにも醜かった
思考で偽装していた殻が割れる
殻の中にうずくまった「偽れない感情」を否定し続けていた
本当は受け入れられないことを無理矢理受け入れるために
殺すことが癖になるほど、殺してきた
日常的にありのままの自分を殺してきたのだ
その凶行は「思いやり」や「協調性」という体の良い言葉に機械的に変換される
次第に当たり前のように他人の思考に管理され、相手の思うがままに
ばれないように、はじかれないように
そうこうしているうちに、心のバランス感覚は崩れていく
大きな葛藤に揺さぶられて、ぐらつきながらフラフラと歩む心は激しく転倒してしまう
お前のせいだと思考は感情をなじる
感情は「もうついていけない!」と思考に向かって泣き叫ぶ
それぞれに異なった方向に引っ張り合い、心が中心から真っ二つにちぎれてしまうような酷い対立が繰り返され、転ばせ、転ばされて 何度も何度も倒れ込む
柔軟性も無いものだから転ぶたび、いつもどこかしら怪我をして
ダメージは蓄積していくばかりで
溝は日に日に大きくなっていき、深刻な自己分裂を引き起こすのは時間の問題だった
相手に従順であろうとする思考が生意気な感情の脇腹を思い切り蹴り上げる
不満を垂れ流し続けるだけの、だらしのない感情に苛立ちを爆発させ、泣き言が聞こえる度に蹴り倒し、踏みつけた
もう許してください、やめてくださいと懇願する感情を何度も何度も踏みつける
感情は叫ぶことをやめ、息をすることをやめた
それでも思考は構わずに前へと歩き続けた
踏み殺してしまった感情の襟首を掴んで、その亡骸を引きずりながら足早に進んでいくばかりだった
邪魔者は死んだ これで何もかも思い通りにいく
なのに、どういうわけか常に不安に駆られビクビクと、もどかしくて
もっと違う人間になりたくて、なれないことはわかっていて
引き裂かれた自己は、どんどんぎこちなくなってゆく
恐れれば恐れるほどに笑えない失敗を積み重ねてしまう
ことごとく後悔しては落ち込んで、消えてなくなる自分を何度も空想した
考えすぎることで何もかもを難しくして、それでも思考は考えることを止められない
自信を喪失して、自分を見失って、
最後には歩き続けることが出来なくなった
いつしか、相手の思考に引きずられるようにして進むことしか出来なくなった
けれどそれで楽になることはなかった
相手の思考にのめり込めばのめり込むほど耐え難い痛みに苛まれた
この苦しさはなんなのかと、この緊迫感はなんなのかと
全部、もうすべてが、ヒリヒリと沁みてくるから
辛くて、怖くて
どんなに押し殺したって、初めから何もなかったことには出来ない
いくら頭で正当化しようと、心には残っている
これが感情を殺した痛み
心が傷つけられた時、その損傷は肉体から流れる赤い血のように目に映ることはない
けれど実際には、心からだって血は流れている
目から涙がこぼれ落ちなくても、心は泣きじゃくっている
思考が詭弁を使ってどんなに綺麗に拭き取ったとしても、精神的な血と涙は止まることなく流れ続けている
「嘘を吐かない」という嘘
違和感で埋め尽くされた共感を繰り返して
自分さえ我慢すれば丸く収まるという勘違い
思慮深く、器の大きい人間であるように見せたいという虚栄心
泣きじゃくる感情を殻の中に閉じ込めることが出来る思考こそが、いわゆる「強さ」なのだと信じて
本当は自分の考えを主張することが出来ない「弱さ」を狡賢く正当化したに過ぎなくて
黒いものは黒だと言うことが出来なかった
黒いものを白と言わされてしまったことを忠誠心や協調性だと偽ってきた
殻の中にいることを妥協させ、納得させ
強さだと言い聞かせていたものは、もう一方の弱さでしかなかった
思考にすらなっていなかった
思考だと思い込んでいたものは、もう一方の感情に過ぎなかった
相手の感情ではなく、自分の感情に振り回されていただけ
相反する二つの感情について向き合うことなく、考えることなく
ただ、より狡賢い感情に支配されていただけ
間違っている、と気付いていた
あれだけ痛めば あれだけ散々苦しめば
けれどまともに対処できるはずもなく、
剥ぎ取られてしまった殻の残骸の上で
なおもうずくまり続けた
自分はもうすでに相手を嫌いになってしまっているくせに、相手から嫌われることには異常なほど恐れて
抱えた膝に震えるまぶたを押しつけて、ただ耐えるしかなかった