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第十回林芙美子文学賞(大原鉄平「森は盗む」)

 檻は屋根もなく雨ざらしで、私が見つけた時はあちこちに青緑色の苔が生えており土台も腐朽が始まっていた。
 檻と言っても鉄格子ではなく木造で、明治時代の監獄のような太い木の格子が、一切の金物を使わずに見事に組み上げられている。

小説トリッパー 二〇二四年春季号(267p)
太字は引用者による

[…] 小柄な私でも身体を折り曲げないと入れない狭い開口部は、その牢が子供用だということを示していた。

小説トリッパー 二〇二四年春季号(291p)
太字は引用者による

冒頭、吉武が子供の頃に閉じ込められた木組みの牢屋について、《明治時代の監獄のような》という比喩が用いられている。いや、これは比喩というより、比喩の皮を被った粗末な説明書きに近い。

《明治時代の監獄のような》は、比喩として低質なだけでなく間違った説明だ。明治時代の監獄と言えば、明治五大監獄――石造や煉瓦造を中心としたモダンな建造物群が有名だ。当時の政府は(明治維新を経て)自国の近代化をアピールするため西洋の様式でもって明治五大監獄を建造した。格子状に木材を組んだ監獄が主流だったのは江戸時代まで、明治時代では時代遅れの産物になっている。吉武が子供の頃に閉じ込められた木組みのそれは「江戸時代の監獄(あるいは江戸時代の座敷牢)のような」と表現するのが適当だろう。

また、戸が狭いからといって子供用を示しているとは限らない。調べた限り、江戸時代に主流だった格子状に木材を組んだ監獄は大人・子供問わず戸が狭いものばかりだった。作者は「私」(一人称の語り手)の職業を設計士に設定しておきながら、物語のキーとなる牢屋についてザルな知識を露呈している。

例:江戸時代の座敷牢
引用:https://www.former-nara-prison.com/history/modernized-judicature/
例:明治五大監獄(旧奈良監獄監房棟)
引用:https://www.arabnews.jp/article/features/article_70449/

 床にはヒノキが張られていたが、小柄な女性である私が三歩ほど歩いただけで一部の板を踏み抜いてしまった。現場経験の少ない設計士としてはもう少し歩いてみて木材の腐朽度合いを確かめたかったが、あいにく三歩以上は歩けない。この檻は畜産用ではなく、牢なのだ。

小説トリッパー 二〇二四年春季号(267p)
太字は引用者による

《小柄な女性である私》《現場経験の少ない設計士として》――これらは一人称の語り手である「私」から出たナマの言葉ではなく、主人公の性別と職業を読者に説明したい作者の都合によって書かれた言葉だ。

例外はあれど、語り手の主観に依った記述を徹底するのが一人称のセオリーだ。《小柄な女性である私》《現場経験の少ない設計士として》は、一人称でなく三人称で書くべき事柄。自己客体化、「私」が「私」のことを読者の目線で捉えた客観的な説明になっている。主人公が現場経験の少ない設計士の女性であることは次の場面で早々に明かされるため、一人称のセオリーを犯してまで冒頭で強調すべき内容とも思えない。

[…] 怒号が倉庫の方から聞こえてきて、それと同時にぱちんと頭をはたく音も届き、さらにガンという強い音がしてブリキのバケツが私の目の端を横切って転がっていく。それらは全く同じタイミングのように思われたが、叫んで、叩いて、蹴る、の三つを人は果たして同時に行うことができるものだろうか。実際はどうだったのか、叫んで、蹴って、同時に叩いたのか。蹴って、同時に叩いて、それから叫んだのか。音速というのは音の感じによって速度が違うのだろうか。そう考えてみれば、ぱちんよりも怒号よりも「ガン」が一番速そうだ。つまり社長はまずよっちゃんの頭をはたきながら怒鳴り、次にバケツを蹴り飛ばしたのではなかろうか。そうして先行したぱちんと怒号に対し、俊足のガンがあとから追いついたのだ。そして勢い良く蹴られたバケツがそれらの音と同時に私の視界にゴールインした…のだろうか。
 などとものすごくどうでもいいことを考えながらCADの画面から目を離し、慢性ドライアイ&眼精疲労の両目を擦って天を仰ぐ。

小説トリッパー 二〇二四年春季号(267p)

「私」の言葉通り《ものすごくどうでもいいこと》がひたすら続く。《ぱちんと頭をはたく音》《さらにガンという強い音》といった漫画の擬音語をそのまま拝借したような表現には閉口だ。《慢性ドライアイ&眼精疲労の両目》もセンスがない。

小説は、喋り言葉に近い文章であっても、文章体の精神が要求される。文章体の精神の乏しい書き手が喋り言葉に近い文章に手を出すと、このような放逸かつ冗漫な乱文に陥ってしまう。ユーモアがある訳でもない、物語に関与する訳でもない、登場人物に奥行きを与えるでもない、場面に色彩を与える訳でもない、《それらは全く同じ…》から始まる一連の記述は無駄と言わざる得ない。

 昨年の台風で広範囲の瓦が飛び、冗談のような量の屋根の修繕依頼が一気に届いた。それでいつも使っている屋根屋さんがパンクしてしまい、全部の屋根を直すのに丸一年はかかるとのことだった。

小説トリッパー 二〇二四年春季号(269p)
太字は引用者による

作者の文章が稚拙な印象を与えるのは、表現しようとするもの(描写、説明の対象)に対して言葉の選択が大味なせいだろう。《広範囲》は主に天気予報で用いられる言葉であり、小説の言葉としては浮いている。《いつも使っている》は日常会話のそれを思わせる言い回しであり、それをそのまま地の文に使ったために文章が子供っぽくなっている。

この小説には「文体」がない。語彙が貧弱なだけでない、全編を通して言葉の統制が取れていない。喋り言葉に近い地の文かと思えば、《顕現》《所定の位置》《濃度を減衰させながら》etc……といった主人公の話し口調に似つかわしくない言葉が飛び出す。おまけに、御伽噺の世界に片足を突っ込んでいるような一貫性のない杜撰な比喩が目立つ(例:《動物のように》《乳児のように》《ふわふわとした海》《要塞の城壁のように》《虹色の毒のような》《団体行事が大好きな体育教師の号令のよう》《この世界の創造主のように》《どこかの国の伝統工芸品のように》《生命のすべてを肯定するような》etc……)。比喩は観察力、表現の引き出しの数、詩的センスが物を言う。つまり、比喩が(壊滅的なほど)へたくそな作家は――。

日当たりのいい事務所に少し角度のついた春の陽射しが斜めに射し込み、その反射光がヤニで黄色くなった事務所のクロス壁と天井に跳ねている。

小説トリッパー 二〇二四年春季号(268p)
太字は引用者による

作者は「説明」と「描写」を混同している。説明文、重複表現(また、重複表現に類する表現)が描写の足を引っ張っている。事務所の日当たりに関する描写をはじめるのに、《日当たりのいい事務所》と説明する必要はない。

《日当たりのいい》を削除して、《事務所に少し角度のついた春の陽射しが斜めに射し込み、その反射光がヤニで黄色くなった事務所のクロス壁と天井に跳ねている。》だけで、そこが日当たりのいい事務所であることはじゅうぶんに伝わる。日差しについては、《少し角度のついた》《斜めに》とほぼ同じ意味の言葉が重ねられている。対象を強調するのに同じ意味の言葉を重ねるなら分かるが、他愛もない日常の風景の描写ではくどくどしいだけだ。

視界の右端から左端へ転がっていったバケツを追うように、しばらくして右から左へとよっちゃんがふらふらと走っていく。

小説トリッパー 二〇二四年春季号(269p)
太字は引用者による

僕はこれを読んだとき悪い意味で紙芝居のような薄っぺらい印象を受けた。《右端から左端へ》《右から左へ》とほぼ同じ説明が繰り返されるせいで、よっちゃんの姿より、「私」の視界(視界の両端、右左右左)のほうに意識を引っ張られる。人間の視界は映画のフレームのように固定されていない。注意を向けた対象につられて頭も動けば眼球の向きも変わる。どこから視界の右端でどこまで視界の左端かは曖昧だ。絵描きのような特殊な職業を除き、日常生活を送る上で視野の周縁が意識される機会は少ないだろう。《視界の右端から左端へ》《右から左へ》と執拗に強調すれば、人間の肉眼が捉えた景色というより、三脚で固定されたカメラが捉えた景色のような窮屈でぎこちない印象を与える。

[…] 弓岡さんの現場の側の、よっちゃんの家があるという例の森もここからは間近に観察することができた。よく見ればそれは山になっているのではなく、平地に濃い色の木々が生い茂っている、まさに森と形容するに相応しいものだった。広葉樹と針葉樹がちょうど半分ずつくらいの割合で交ざっていて、広さもかなりある。

小説トリッパー 二〇二四年春季号(285-286p)

このペラペラの書割のような風景描写に、作者の描写力の低さが如実にあらわれている。いや、「風景描写」でなく、「風景に関する(描写の振りをした)説明文」と呼ぶべきか。物語の主題に絡む「森」を目の前にしても、作者は無味乾燥とした視覚情報を垂れ流すだけ。「よく見れば立派な森じゃん」というどうでもいい感想と、「広葉樹と針葉樹の割合は半分ずつくらい」というチープな説明文で風景の貧弱さを誤魔化そうとしている。風景に対する感性が平凡、物の見方が平面的、情感もへったくれもない。

 昨日フラフラになりながら冷凍食品とレトルトでつくった夜食の、その残り物ばかりで構成された「ええもん」ではないお弁当は、学生時代に流行したデザインの、ところどころプラスチックが削れて底がざらざらになった弁当箱の中に敷き詰められた、誰のものでもなく、いわれのない味付けの、ずしりと重い私の履歴書だ。

小説トリッパー 二〇二四年春季号(270p)

《残り物ばかりで構成された「ええもん」ではないお弁当は、》に、《ずしりと重い私の履歴書だ。》が対応している。その間に、《学生時代に流行したデザインの、ところどころプラスチックが削れて底がざらざらになった弁当箱の中に敷き詰められた、誰のものでもなく、いわれのない味付けの、》(いれのない味付けって……)という補足的な情報が山ほど詰め込まれているせいで、文法的に苦しい読みづらい悪文になっている。僕は必ずしも悪文がいけないとは思わない。だがこの作品の悪文はただただ悪文なだけで、それが小説としての面白さに繋がってくれない。

作者の中で読者に伝えたい情報の優先順位がついていない。弁当箱、冷凍食品・レトルト食品に関する細部が芋蔓式に引きずり出されることで文章の焦点がぼやけ、それに伴って読者の目はあっちこっちに振り回される。補足的な情報がガチャガチャとうるさく、細部と細部が互いの印象を喰い合っている。

 社長が不在で、隣にある倉庫の作業音も無い時間帯は、まるで世界中で働いているのが自分一人だけのような気分になる。

小説トリッパー 二〇二四年春季号(268p)
太字は引用者による

この作者の文章に対する意識の低さは、《作業音》という粗雑な造語(造語モドキ)にはっきりと現れている。もちろん、言葉は時代に合わせて徐々に変化していくものだ。辞書に載っていなくともそれが一般的に浸透している言葉であれば受け入れたい。《作業音》はどうか? 僕が調べた範囲ではごくごく少数の人が使っているだけだった。

せめて「作業する音」と書けばいいのに(だとしても、一体どんな音だという疑問が浮かぶ)、作者はたった二文字の動詞を書く手間を省き、「作業」「音」というそれぞれ独立した名詞を接続させる。物語に必要な造語なら分かるが、「作業する音」を「作業音」に短縮させたところで何の効果も発揮しない。

「意味は同じなんだから、『作業音』でも『作業する音』でもどっちでもいいじゃないか」――そんな作者の不貞腐れた声が聞こえるようだ。だとすれば、作者にとって小説(ひいては創作活動)とは、「細かいことはどうでもいい、大筋が伝わればそれでオッケー!!」という妥協の産物であることを意味する。作者は文章に対する意識が高いから、新しい言葉を作り出しているのでない。むしろ、文章に対する意識が低く、また日本語の伝統性に対する敬意を欠いているからこそ、物語に何ら貢献しない粗雑な造語(造語モドキ)に走り、手垢に塗れた紋切型な表現を連発するのだ。

[…] 弓岡さんの奥さんと、小学生の二人のお子さんがご来社され、ミーティングスペークで間取りを再検討していく作業だった。

小説トリッパー 二〇二四年春季号(276p)
太字は引用者による

会話文ならともかく地の文では適切な敬語を使うべきだ。《ご来社され、》は「ご」と「される」の二重敬語、「来社され、」あるいは「ご来社になり、」が適当だろう。そもそも、地の文に一箇所だけ敬語(しかも、不適切な敬語……)を捻じ込む必要があったのかも分からない。

 平日の昼下がり、通行人の姿もなく、行き交う車もなく、ただ家々の屋根と白い壁面が永遠に続くこの異様な風景は、まるでディスプレイの中の世界のようだ。平面状に均された黒い道に沿って同じような家が無限リピートしている。家々は皆同じように表面を白く塗り潰され、同じような表情をして黙り込んでいる。一切の物音がなく動くものもない真空状態の世界は恐ろしく現実味がない。

小説トリッパー 二〇二四年春季号(274p)
太字は引用者による

日本の郊外の住宅街とは思えない奇妙な風景が中二病全開なポエムでもって表現されている。ちなみに、引用した箇所の前の頁には《建売でなく注文住宅が過半数を占める》と書かれている。施主の個性があらわれる注文住宅ばかりの地域で、道沿いの家々の壁が揃いも揃って白色というのはありえない。

乱気流に私の髪がめちゃくちゃに暴れ、額の汗が背後に飛ばされて急速に乾いていく。ついでにファンデも眉毛も飛んでいき、下地もオイルさえも吹き飛ばし、後にはすっぴんになった私と風だけが残る。

小説トリッパー 二〇二四年春季号(268p)
太字は引用者による

前後の文脈から察するに、この乱気流は自転車で坂道を下るときに主人公が感じた風のことを指している。一般的に、乱気流は高山の周辺や雷雲やジェット機に関する文脈で使われる(航空業界や気象学の分野に属する言葉と言えるだろう)。自転車で坂道を下るだけの描写に乱気流を持ち出すのは大袈裟で滑っている。乱気流の発生しやすい特殊な地形ならまだしも、主人公のいる場所は《真空状態》()と表現されるほど落ち着いた住宅街のはずだ。

(妻に引用箇所を読んでもらったところ、「は? 風だけで眉毛まで吹き飛ぶ訳ないじゃん! どんなヤバい化粧品を使ってるんだよ!」と貴重なツッコミを頂戴した。)

 森の入口に着き、ここで遊んでいいよ、と二人に言った途端、それまで大人しく私の後ろを手をつないで歩いていたはずの二人が弾かれたように森の中へバラバラに走って行き、あっという間に私の目の前から姿を消してしまった。私の顔からさっと血の気が引いた。しまった、油断した、私は二人の名を呼びながら森の暗がりへ飛び込み、息を切らせながら走った。またもや育児経験のなさが露呈したのだった。

小説トリッパー 二〇二四年春季号(290p)

[…] 腐葉土の大地はどこまでも柔らかく踏みしめることもできなかった。

小説トリッパー 二〇二四年春季号(291p)

さすがにシチュエーションに無理がある。別の事柄に気を取られていたならまだしも(近くを不審者が通り過ぎた、スマートフォンに着信があった、など)、「私」は子供たちが走り出すのを把握しながら森の中へ姿を消すまで何もせず突っ立っていたというのか。しかもそこは踏み締めることもままならないほど柔らかい地面、子供たちが速く走れる訳がない、成人女性の脚力があれば一人くらいは追い付くことができるはず。

《またもや育児経験のなさが露呈したのだった》とあるが、子供たちの姿がすっかり見えなくなってから「しまった~」と追い掛けるホームラン級の間抜けであれば、仮に育児経験があったとして似たような事態に陥るだろう。

「私」は二人を探すのを途中で放棄し、《よっちゃんの家》の観察に没頭する。この強引な展開には笑うしかない。施主から預かった子供たちの行方よりも、自分の興味関心を優先させる――。物語うんぬん以前に、主人公の人間性、仕事に対する態度が疑われる。さらに最悪なことに、作者は《突然目の前に子供たちが飛び出してきた》()というご都合主義を取り入れることで、子供を探すのを放棄した「私」の無責任さを誤魔化そうとする。「見つかったんだからオールオッケー♪ 上湖ちゃん(主人公)は何も間違ってないよ♪」と言わんばかり、まともな倫理観を有する読者は唖然とするだろう。

一人称の語り手を"ヤバい奴"(人間性が疑われる人物)に設定すること自体は構わない。だが作者の場合、あえて「私」を"ヤバい奴"(人間性が疑われる人物)に設定したというより、説得力のあるシチュエーションを捻り出す努力を怠り、自身の求める展開に合わせ「私」の行動を采配した結果、意図せず"ヤバい奴"(人間性が疑われる人物)を生んでしまったのではないかと思う。

《森の入口》――遊歩道の整備された緑地公園なら分かるが、ただの森に入口はない。

《私の顔からさっと血の気が引いた》――三人称に近い表現になっている。「血の気が引く」は皮膚の色が青ざめることを意味する。顔色の変化は自分で分からない、鏡を見たり他人から指摘されたりして気づくものだ。

[…] 葉色の暗い常緑樹が頭上に広げる土気色をした枝はまるで人間の四肢ほどに太い。その生気のない肉に絡みつく血管のように、無数の細いツタが複雑に交差しながら枝や幹の表面を走っている。

小説トリッパー 二〇二四年春季号(267p)
太字は引用者による

 それがよっちゃんの家だということは一目見てすぐに分かった。[…] 私が近づくと森の中に風が吹いた。その拍子に揺れる新緑の切れ目から木漏れ日が射し込み、格子戸に取り付けられた錆びたかんぬきを明るく照らした。

小説トリッパー 二〇二四年春季号(290p)
太字は引用者による

川上未映子の選評を読む限り、267pの引用と290pの引用は同一の場面を指しているそうだ(《物語内容は、ホラー小説のはじまりかと思った冒頭のシーンに接続し、》とのこと。……もはやどうでもよくなってくるが、この文章の流れなら「接続し、」は「接続され、」に修正したほうがいい)。

これらは同一の場面のように見え、実は異なる場面である可能性が考えられる。序盤の森で《葉色の暗い》(≒深緑)と表現されたものは、終盤の森で反復される際に《新緑》という言葉に置き換えられているからだ。新緑は五月頃の瑞々しく明るい色を指す、深緑は新緑の色濃くなった六月頃の暗い色を指す、267pは五月頃の森の場面、290pは六月頃の森の場面と解釈される。

とはいえ、川上の解釈を否定する気は起こらない。というのも、267pの引用と290pの引用は同一の場面と解釈したほうが物語の収まりがよくなるから。同一の場面として読者に受け取ってほしいなら、それぞれ風景の細部を統一させるべき。異なる場面として読者に受け取ってほしいなら、風景の細部だけでなく、主人公のモノローグの内容にもいくらか変化を与えるべき。作者の書きぶりがどっちつかずなせいで、物語に必要のないところで解釈の幅が生じている。

[…] これがよっちゃんの心象風景なのだ。よっちゃんが感じていたのは孤独だろうか、それとも己の無力さだろうか。無力な子供は牢から出ることはできない。よっちゃんは絶対的に一人だ。一人になったよっちゃんを、暗がりから悪者たちが目を光らせて狙っている。彼らはよっちゃんが手にしているはずのほんのわずかな宝物でも、森は無慈悲に盗んでしまう。

小説トリッパー 二〇二四年春季号(292p)

村上春樹のへたくそな真似っこのような文章だ。深刻な児童虐待を暗喩の平面に移行させ、責任の所在を曖昧にする作者の手口は、村上のエピゴーネンを連想させる。

主人公は吉武が子供の頃に受けただろう苦痛に思いを馳せるが、それはあくまで「森」という暗喩の平面に留まっている。吉武を牢屋に閉じ込めた吉武父の責任が追及されることはなく、吉武が子供の頃に受けただろう苦痛は、《森は無慈悲に盗んでしまう》《悪者たちが目を光らせて狙っている》といった童話チックな表現で処理される。主人公は「森」の暗喩に酔い痴れているだけで、実のところ何も考えてはいない。むしろ、「森」の暗喩を連発すれば連発するほど、主人公の、ひいては作者の、児童虐待に関する社会的な視座の欠如、洞察の甘さが浮き彫りとなる。

……小説トリッパーの「森は盗む」の頁は、僕が鉛筆であれこれ書き込んだせいで真っ黒になった。文章に関しても内容に関してもまだまだ(山ほど)ツッコミどころが残っている。だが、それら全てを指摘するだけの体力の余裕はもうないので(この文章を書いている時点で疲労がピークに近づいている)、物語の結末に触れて小説の感想を締め括りたい。

 私はいつからかよっちゃんの家を設計するようになっていた。今こうしてプランを練っていると、それまでの私に何が欠けていたかがよく分かる。私に欠けていたのは使命感だった。自分のために、私たちのために、私は家をつくらなければいけないのだ。

小説トリッパー 二〇二四年春季号(296p)
太字は引用者による

事務員の小林が窃盗の常習犯である吉武を警察に突き出した後、主人公は吉武を父親・小林を母親に見立て(ここも分からない)、その二人の間に生まれた小学生の娘になりきりながら、《私に欠けていたのは使命感だった》と一連の流れを振り返る。使命感とは自分に課せられた任務(責任)を果たそうとする気概を意味する、小学生の女の子(=社会的に責任能力を持たない存在)に擬態した「私」が使命感を語ったところで何の説得力もないだろう。

この作品において、「私」は最初から最後まで傍観者の位置にいる。吉武は自らの犯した窃盗によって会社での立場を失うが(もっとも劇的な展開が起こるという点で、本来この物語の主人公は吉武に設定されるべきだった)、「私」はどうか。「私」の葛藤(母との確執、居場所のなさ)は過去の回想として処理されるだけ、吉武のドラマと有機的に噛み合うことなく物語は閉じられてしまう。「私」のドラマが弱いのは小説として退屈だ、主人公が決断を迫られないところに物語の駆動力は生まれない。

それでも、「私」の心情の変化を丹念に追っていれば、小説として成立しただろう。だが、物語の終盤に至って「私」の内面がじゅうぶんに掘り下げられているとは言いがたい。主人公は何に突き動かされ、どういう心境の変化があって、「私に足りなかったのは使命感だ、家を設計することだ」という内省に至ったのか――。読者にとって肝心なところが端折られている。読者の想像に委ねるにしても、読者が主人公の心の動きを辿れるようなヒントを示さないといけない。作者は読者を置き去りにしたまま、中身を伴わない"感動的な雰囲気"だけで小説のラストを駆け抜けてしまった。

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