石田月美著:「まだ、うまく眠れない」を読んで
著者と同じ年齢から同じく精神科に通い、不均衡は世の中に多々あれど時間だけは平等に進み、瞬きをしていたとしか感じていないのに「まだ、うまく眠れない」に記された著者と同じ年齢になった。
私は睡眠時の摂食障害だ。
眠りにつくことが出来ても、睡眠中の無意識下や覚醒状態の中で食事を摂ってしまう。
ベッドに広がる食事の残骸を掃除することから私の一日は始まる。
まだ、上手く眠れない。
著者を知ったのは哲学対話だ。
私が哲学対話に出会った時、まだ哲学対話が日本では今ほど普及はしておらずコミュニティの顔ぶれや実践報告を把握できる規模だった。
喉から手が出るほど詰みたい経験値を得るためには、大人としてのふるまいをそつなくこなすというだけだ。
自分がやりたいと思えたことなのだ、大したことではないだろう。誰もが、大なり小なり日々乗りこなしている社会の一部分でしかないのだ。
そのうち、私は寝ている間に食べるようになった。
思えば、ずっと太ったことが無かった。
シンデレラ体重と呼ばれるそれは、女性である以上褒められはすれど、筋肉のない私の身体が健康的であることは無く自覚のない摂食障害はずっと側にあったのかもしれない。
パンデミックになり、オンラインで哲学対話が爆発的に多様的になった。
無秩序ともいえるほどの広がりに混乱もしつつ、安堵した。
そんな時に、哲学対話に参加していた石田さんの文章と出会った。
今作はオムニバス形式のエッセイだ。
私の意識は強烈な過去の記憶と、変わり映えのない窮屈すぎる日常の、オムニバスのような、断片的な物事の寄せ集めの、過去の時間軸が現在と混在する夢現のような感覚だ。
私自身の物語をどのように紡げば良いのかともがいている。
社会というものは、同じ物語を持つ共同体の視点に沿って出来ている。
物語を紡げない私は透明な箱の中にいるようだ。
箱の中から外ははよく見えるのに、身動きが取れない。
子供の頃から物語を読むのも書くのも大好きだった。
文字の読み書き発達が早かった私は幼稚園に通う前に読み書きが出来ていた。
忙しく、バスの送迎があるからという理由でさほど教育熱心ではない親が預けた先は早期教育を軸に置いていて、家から遠く離れた自然豊かな園で文章を書く課題を難なくこなしていたそうだ。
今は文章が書けなさすぎて苦だ。
これを書いている今も自意識過剰に苛まれつつ書いている。
周りの友達が体をめいいっぱい動かして遊んでいるのを横目に物語の中の世界に居られればそれで良かった。
体を動かす遊びは大好きではなかったものの、主人公は私であると思っているような子供だった。
自分の物語をこれから紡いでいく未来のある子どもだと、誰もが信じて疑わなかったころ、私は幸せだった。
挫折からの回復をドラマティックにも語れない。まだうまく眠れないのだ。
今作のオムニバス形式は、著者とは絶対的な他者であるものの障害を持つという共通項のある、著者の言葉を借りれば(ビョーキ)のひとの形のひとつのように思った。
生と死、現在と過去、一直線であるとされる混在できないはずのものがぐるぐると廻る、そのあわいに(ビョーキ)の私が居る。
そこにある煮詰まりすぎて重くドロドロした私以外の言葉たちを、知らなかった。ずっと待っていたように思う。
読み進めるほどに、てらいがなく、素直にぶつかってくる。
平穏を望み、自分の物語が紡げないことを
公にすることを決して私は願わなかったのに、今、文章を書いてしまったくらいに、率直だ。
覚悟が決まった彼女の文章は、力強く、覚悟の無い子供のころの私が、羨やましがっている。
また、偶然に石田さんと哲学対話出来ることを願っています。