[処女は恥ずかしい?]処女の歴史①日本人の恋愛と結婚・古代~江戸時代
こんにちは。40代で「彼氏いない歴=年齢」&「おひとりさま」の占い師(占いカウンセラー)・可憐(かれん)です。
「彼氏いない歴=年齢」や「おひとりさま」や「性体験がない、処女であること」でお悩みの女性のみなさんへ。
「処女(バージン)であることは、恥ずかしいこと?」という問いに対して、「処女であることは、恥ずかしいことではありません」と答えるために。
まずは「日本人の恋愛や結婚のスタイル」を見ることで、「処女の歴史」を振り返ります。
奈良時代
結婚のような男女の関係が日本に生まれたのは、いつのことなのでしょうか?
縄文・弥生時代に結婚に近い概念が存在していたのかは、明確な記録がないため定かではないそうです。
それが登場したのは奈良時代(710~794年)のこと。
現存最古の歌集と言われる『万葉集』は、奈良時代の末期に成立したとされています。
中には恋の歌も、性的な内容の歌も含まれています。
たとえば、男性が女性の寝室に忍び入って性行為をする、「夜這(よば)い」に関する歌もあるとか。
ただ、現代だと「夜這い」はいかがわしい、強姦・レイプのように思われていますが、古代では求婚する女性の元に男性が通う、「妻問い婚」のことを指していたそう。
「妻問い婚」とは、夫が妻の家を訪れるだけで、同居せず、共に暮らさないという、現代の「別居婚」に近いスタイルです。
また、この時代には、歌垣(うたがき)という行事がありました。
「男女が山や市などに集まって互いに歌を詠みかわし舞踊して遊んだ行事。一種の求婚方式で性的解放が行われた」(『広辞苑』)
「性的解放」というところから、性に関して男女ともに開放的な様子がうかがえます。
平安時代
続く平安時代(794~1192年)といえば、今年2024年の大河ドラマ『光る君へ』でもおなじみ、紫式部の『源氏物語』を思い浮かべる人もいるでしょう。
『源氏物語』のほかにも、清少納言の随筆『枕草子』や、『蜻蛉日記』『和泉式部日記』『御堂関白記』といった日記や文献資料などから、当時の人々の生活がわかります。
平安時代の貴族は一夫一妻制で、妻の家で夫が暮らす「婿取り婚」の形式でした。妻の実家が夫の衣食住を負担し、妻も財を蓄えています。
大河ドラマ『光る君へ』では、藤原道長と倫子夫妻がそのように暮らしている様子が描かれています。「一夫一妻制」とはいえ、男性はほかに妾(しょう・めかけ)を持てました。
『源氏物語』についてはここで詳しく書く必要もありませんが、光源氏が多くの女性と関係を持つ、恋愛とその苦悩を描いた長編小説です。
紫式部と同時期を生きた、『和泉式部日記』の作者・和泉式部は、恋多き女性としても有名です。
20歳前後で結婚し、子を産んだけれど、天皇の皇子である親王と関係し、夫と離婚。親王が亡くなった後、その弟と関係を持つ。その弟とも死別した後、他の男性と再婚しました。
和泉式部は歌がとてもうまかった、とのこと。
当時は「いかに教養のある、心に響く和歌が詠めるか」が男女ともにモテる要素だったのです。
そしてこの時代も、男性が女性の家を訪れる「夜這い(通い婚)」が行われていました。3日目の夜這いまで女性が許せば結婚が成立。
たしかに、『源氏物語』の光源氏は、強姦・レイプまがいの夜這い行為を行っていますし、自分の父親の妻・藤壺を妊娠させたり、柏木は源氏の年若い妻・女三の宮を妊娠させてしまうという「寝取られ」も多発。・・・これはあくまで「物語」ですが。
平安時代も、文学や書物などから、当時の日本人が恋愛や性交渉に大らかであったことがわかります。
鎌倉時代
性的に大らかだった男女の関係や結婚のスタイルは、一昨年2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の時代、鎌倉時代(1185~1333年)に武士が台頭すると変わってきます。
武士の家では、男子が代々、家督を相続するのが一般的。その結婚スタイルは、妻が夫の家へ入る「嫁入り婚」です。
嫁入り婚は、夫の親や家長が選んで決めた嫁を取る形ですから、夫婦の間に自由な恋愛はありません。婚礼の日に初めて夫婦が顔を合わせるということもよくありました。
この結婚の形は、父系の家長が絶対的な権力を持って家族を支配する「家父長制」を強めます。
そして、「嫁入り婚」はこれ以降、現代まで、最も一般的な結婚スタイルとなって続いています。
とはいえ、武士よりも農民や町人などの庶民の方が人口は断然に多いので、急に世の中の仕組みが変わるわけではありません。
鎌倉時代には、庶民の女性も職や田地などの所領を所有していて、比較的自立しており、夫婦の一部は共働き、共稼ぎで対等な関係を築いていたと考えられています。
戦国時代
時はさらに武士が台頭した世、戦国時代(1467~1568年)に移ります。
この時代も、武田信玄や伊達政宗のような大名や武家は、夫の家へ妻が輿入れする「嫁入り婚」が基本的なスタイルで、「政略結婚」が主流。
そんな時代にあって、徳川四天王の一人で戦国最強といわれる本多忠勝が、幼なじみの女性と恋愛結婚して添い遂げたのはめずらしいこととされています。
一方、庶民の間では、同じ村の中で、妻のもとに夫が通う「通い婚」が一般的でした(小和田哲男・監修『乱世を生き抜く戦国時代』)。
戦国時代の処女性
処女性や貞操について、文献に記述が残っています。
織田信長、豊臣秀吉とも交流した宣教師ルイス・フロイスは、当時の日本やキリスト教の布教の様子などを著書や手紙に表しました。
その著書の中に、「ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と貴さは、貞操であり、またその純潔が犯されない貞潔さである。日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても、名誉も失わなければ、結婚もできる」という記述があります。
つまり、16世紀頃、ヨーロッパのキリスト教徒たちにとっては、結婚まで純潔(処女)を守ることが大切だったが、日本の女性たちは性に奔放であり、処女でなくても結婚ができた、ということ。
ちなみに、ルイス・フロイスはイエズス会、カトリックの宣教師です。
イエス・キリストの母マリアは大工のヨセフと婚約していましたが、結婚前に処女のまま懐胎。ヨセフは離縁を決意しましたが、夢に主の使いが現れ、懐胎は聖霊によるものと告げたので、マリアを妻とし、生まれた子をイエスと名づけた、とされています。そのためマリアは聖処女などとも称されます。
純潔を重んじるキリスト教の宣教師として、フロイスは性的に大らかな日本人の様子に複雑な思いがあったのかもしれません。
江戸時代
徳川家康が幕府を開き、武士のトップである将軍が世を治めた江戸時代(1603~1867年)。
恋愛や結婚のスタイルはどのように変化したのでしょうか?
庶民の「夜這い」
古代(奈良・平安時代)では、「夜這い」は男性が女性のもとに通う「妻問い婚」を指しました。
しかし、中世(鎌倉・室町時代頃)以降、女性が男性の家に嫁す「嫁入り婚」が普及してからは、「夜這い」はいかがわしい、不道徳なことを意味するようになりました。
ただし、地方の庶民の間では、「夜這い」は恋愛や結婚の手段として、公然と行われていたようです。
そこで利用されたのが、「若者宿(わかものやど)」。
もともと古くから日本には全国的に「若者組(わかものぐみ)」と呼ばれる、現代の青年団のような青年男子の組織があったようですが、その若者たちが集まる場所が「若者宿」です。ほかにも「若い衆宿、ネンヤ(寝屋)、泊まり宿、寝宿」など、さまざまな呼び名があります。
寝泊まり、合宿をせずに、単に集会所として使用されたところもあったようです。
そこの目的は、青年男子たちが若者宿の頭や「宿親」と呼ばれる年長者の指導、監督のもとに、夜なべ仕事のかたわら、村人として知らなければならない知識や技術を学んだり、「娘宿(むすめやど)」の女子と交流して結婚の準備を整えたりすること。
青年男子の組織「若者組」があれば、未婚女子の「娘組(むすめぐみ)」もあります。娘組が集まるのが「娘宿」。
村で信用のある年輩の人が「宿親」となり、その家が「娘宿」となりました。
「娘宿」には、村の同年輩の未婚の女子たちが夜ごとに集まり、手仕事(草履を編む、縄をなう、など)をしたり、談笑したりして過ごしていた様子。
そこへ「若者組」の男子たちが訪ねてきて、仕事の手伝いをしたり、雑魚寝をしたりして仲よくなり、交際、恋愛、結婚と進むのが、当時の結婚の基本的なスタイルであったようです。
(参考:『精選版日本国語大辞典』『ブリタニカ国際大百科事典』『日本歴史大辞典』)
都市部の自由な性愛
そのような公然の「夜這い」が江戸時代における、日本の大部分を占める農村部の恋愛や結婚のスタイル。
それに対して、江戸などの都市部では様子が異なります。
享保6年(1721年)、江戸の町人の人口は男性100に対し女性55で、圧倒的に男性が多い状況でした。それでは当然、「独身の男性が余る」ということになります。
歌舞伎が生まれたのも江戸時代。美少年ばかりによって演じられる若衆歌舞伎が盛んになったのは、1630~50年頃です。
戦争のない江戸時代は町人文化が隆盛で、歌舞伎や文楽が上演される芝居小屋や神社仏閣には、女性たちも集って楽しんでいました。
こうして、江戸時代の都市部では、自由奔放な性や恋愛に基づく新たな文化が栄えていったのです。
女子の道徳教育
地方の農村部では、夜這いや通い婚が行われていたようですが、江戸時代も武士の家では、女性が男性の家に入る「嫁入り婚」が主流です。
嫁入り婚は、夫婦の間に自由な恋愛はなく、親や家長が選んで決めた嫁を取る形です。これは、父系の家長が絶対的な権力を持って家族を支配する「家父長制」のもとで行われます。
そこでは女性は従属させられ、その地位は低くなります。
さらに、都会での町人たちの乱れた性愛、色恋沙汰から、女性の貞操を守ろう、女性を教育せねば、という意識が生まれたのでしょうか。
江戸時代の中期から、女性を教育するための「女大学(おんなだいがく)」という書物が普及し始めました。
「女大学」にはさまざまな版があり、著作者や初版刊行年は不明ですが、有名なものが貝原益軒(かいばらえきけん)の『女子を教ゆる法』(宝永7年、1710年)。
これは女子に対して儒教的な考えを知らしめるための教訓書です。内容は「女性は家庭内では、父母、夫、舅姑に従順に仕え、良妻賢母となり、家政を治める」といった心得や道徳が19条にわたって列挙されています。
●「女大学」に含まれていた内容
►「三従(さんじゅう)」
仏教や儒教道徳でいわれた、女性が従うべきとされた3つの道のこと。
「幼にしては父兄に従い、嫁しては夫に従い、夫死しては(老いては)子に従う」という女性としての心がまえ。
「三従」について、「家庭のなかにおける婦人の従属性を示す言葉。男性中心の儒教道徳から生れた女性道徳の原則」とする事典もあります(『ブリタニカ国際大百科事典』)。
►「七去(しちきょ)」
中国の古典に記される、妻を離婚するための7つの条件。
「舅・姑に仕えない(父母に従順でない)こと、子がないこと、淫乱であること、嫉妬深いこと、悪疾のある(たちの悪い病気がある)こと、多言(おしゃべり)であること、盗癖のあること」の7つを指します。
►その他、儒教的な教え
・「貞女は二夫に見(まみ)えず」(貞操堅固な女は二人の夫を持たない、貞節を守る女は再婚しない)
・「男女は七歳にして席を同じうせず」(7歳になったら男女の別を正しくして、みだりに交際してはならない[同席しない、同じ布団で寝かせない、など諸説あり])
→これにより日本の学校は戦前まで7歳以降は男女別学。共学になったのは戦後(1945年)から
なお、儒教とは「古代中国にいた孔子の教えを中心にして成立した、仁と礼を基本概念とする、政治や道徳の思想と教え」です。
日本にも古くから伝来し、天智天皇(在位668~671年)の頃にその影響が見られます。
それが1700年頃の江戸時代に、女子を教育するための道徳のベースとして重んじられていたということです。
「女大学」における処女性
「女大学」における、処女性や貞操については、以下のとおり。
この「女大学」にはさまざまな改版本、類本があり、続く明治時代以降も戦後まで、同様の内容のものが女子の修身の教材本として使われていました。
つまり、古代中国の儒教の教えをベースにした道徳の書物が1700年頃に誕生し、その内容が1945年の終戦後まで教えられていた、ということ。
「女大学」には、男女平等などという視点は見られません。
現代社会にいまだ根深くはびこる、男尊女卑、女性差別の根っこがこの辺りから現れ始めたようです。
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さて、長くなりましたので、今回はここまで。
古代から江戸時代までを振り返りました。
次は、明治時代の「恋愛、結婚、処女の歴史」をお送りします。
つづきはコチラ
●参考文献:
酒井順子『処女の道程』新潮社 2021年
牛窪恵『恋愛結婚の終焉』光文社新書 2023年
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龍泉寺可憐|40代で「彼氏いない歴=年齢」&「おひとりさま」の占い師(占いカウンセラー)
新卒で出版社に勤務
親の介護&コロナで働けなくなってから派遣で図書館に勤務
ライターとしても活動
電話占い師として1年で老若男女のべ750人鑑定
現在、占いカウンセラーとして「彼氏いない歴=年齢」・「おひとりさま」の女性のお悩み相談に乗ってます
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