まあ、ここ最近殊に騒がしいことこの上ない「わたし」
嗚呼、何でまたもや似たり寄ったりなテーマでかくも腹立たしいことがやってくるかね?と憤慨することこの上ない

人生なんて完成済の映画みたいなもんなんだから、ほんの一瞬先のシーンとて決まっていることなんだし、どう足掻こうがなるようにしかならないんだから落ち着けよ!
と思ってみたところで、
そう思っていること自体がストーリーのワンシーンの中の「わたし」なんだから仕方ない

何をどうしようとしたところで、成る時はなるし成らないときはならない

引き寄せだの思考は現実化するだのってこともとっくの昔にやめた
案外凝り性だからか、納得するまでは止めたくない質だからか
自身の思考を常に監視しながら真剣にかれこれ20年はやっていたけど

思考は確かに現実化するとも思う
(↑ 鶏が先か卵が先かって話にもなるから今回はこの話はパスで)
だが、自身の思考+その思考(想像含む)に不随する微かな感情に余程注意してネガをポジになどと努めていても、時には本人も気づいていなかった深い部分のネガ本音が実現してしまうこともある
そんな自身の深層のネガを探り捲り徹底的に排除しなければ望む未来は訪れない
人には優しく、与えたものが返ってくるのだから
どんな酷いことをされようが許すことに努め、そして常に明るくあろうなど…
一生懸命それを実践し続けていたらほんとに病むって気づいたから

そもそも自分の思考って何?って突き詰めて考える切っ掛けになったのは
至福体験を思いだしたことからだった
天然放蕩旦那と生後2か月の児を抱え、毎日食べていくだけで必死
パンツが古くなろうが買う事もできないなど
きつい状況で起きた不思議な出来事。

何これ?絶対に私の考えじゃない。
とはっきり分かる言葉が不意に浮かんできた。

何をしている最中だったかと言うと、
ミルクを作る為のお湯を入れたポットとミルクの瓶を持ちながら
メッチャ狭い部屋の中を数歩移動していた最中。

その言葉が浮かぶ寸前(刹那)に
足元から、経験したことのない至福感を伴ったエネルギー
(と表現すればいいのか)が渦を巻きながらドーッ!と上がってきて
そのトルネードのような何かに驚いて一瞬立ち止まった時、

「可愛い子がいて、美味しい水が飲めて何て幸せなんだろう」
という言葉がやってきた。

うん、やってきたという表現の方があっていると思う。

自分の頭の中の声ってどんな声色なのかよく分からないから
その私の言葉とは思えない台詞と、私の思考(台詞)の区別が明確につくかといえばそうとも言いきれはしないのだが

何せ、そんな殊勝なことに思いを巡らせるような生活状況になく
金銭的超窮状の中、初めての育児も重なるプチパニ状態の私の頭の中は
何とか子の児を育てていかねばという思い一色だったから

そして私はその言葉に対し即座に反論めいたことを(脳内で)応えていた。
「え?可愛い子っていうのは分かるけど美味しい水って?水道水しか飲んでないんですけど」と

その反論めいた自身の思考(台詞)を認識した瞬間に
首元まで上がってきていたその至福トルネードもピタっと消えてしまった

あれ?今のは何だったんだろう
そう思ったものの、日々の大変さの中で随分長い間思い出すこともなかった

それから20年くらい経ってから、両親の死をきっかけに
最初は亡き母にどうしても謝りたいことがあって(←生きてるうちにしておけよって話なんだけど)
無理だよ、もうこの世にいないんだからと思おうにも
ジタバタといろんなスピセッションやらセミナーに行くようになってやっとそういえば不思議な至福体験があったなと

至福ってどんな感じだったっけと思いだしてみるに
なんせ普通の幸せ~ってレベルとは段違いで
意味なく単純に(水道から出てくる水にまで感謝していた”何か”にとっては意味があったのかもしれないが)
ただとてつもなく幸せだった

時間にすれば一瞬のことだったかもしれない
あの至福・・・

何故、人生でも今のところ最大の難局だった時期に起きたんだろう

今思えばかなり悲惨な状況だったよねと思うものの
悲惨だなどということに気づく余裕もなかった気がする
次は何をしておかねばならぬかなど、考える前に身体が動いていたことは確かで
毎瞬毎瞬必死で悩んでいる暇などなかったからかもしれない

今ここで
それしかなく、あーだこーだと他所事を考える暇など皆無だったということ

多分それが
至福が訪れてくる第一の条件なのかもしれない












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