観る観られる

能の先生が、観られる体験をさせてくださった。
(詳細は先生にお尋ねください)

舞台に立つ人は、観られていることを知っている必要があるんだなと私は思った。

(そんな事、誰でも知っとるわい)と思うでしょう?


この場合の「観られていることを知っている」というのは

観られると圧を感じるんですよ。

圧を感じると、私の中で その圧を 跳ね返そうとする力が発生する。

観られる圧と観返す圧で
観る人と観られる人の間に、
互いに綱引きをしているような
押し合いをしているような関係性が生まれる。

「観られていることを知っている」とは

その関係性の糸を切らないということだ。


(えーっと次は右足からだっけ?左足からだっけ?)

なんて考えた瞬間、関係性の糸は ぷっつり切れる。

お客さんは、舟から放り出されたみたいな気持ちになるだろう。


「観られていることを知っている」のと
「観せようとしている」のは違う。

「観せようとしている」手つきが鼻につくのは

「観せようとしている」圧が、観られる圧から生じたものでは無い事が多いからだ。

観られる圧を受け止めないで、観せようとすると
お客さんは、厚かましさを感じて不快になるんだ。

(と書いておいてなんだけど
「観せようとしている」のが必要な場合もあるし
観せようとする人が好きな人もいます。
好きな事をして好きなものを観るのが良いと思います)


私は、「観られていることを知っている」関係性が好きだ。

「観られていることを知っている」と お互いがどこかで触れ合っている。

そうすると、動きの輪郭がトゲトゲしないの。
やさしい動きになるの。

憎しみを爆発させるような動きをしたとしても
本当にいらない物を投げ捨てるような動きにはならないんだ。


観られていることを知っていると、

「今、この舞台の上にあるものは、大切なものなんですよ」

どこかでそれが伝わるような動きになる。



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