土手の向こうに僕の未来が見える気がしてたんだ。
僕の実家は滋賀県大津市にあり、そこで中学から大学を卒業するまでの時期を過ごした。
田んぼの中の未舗装の道を、坂の上の無人駅まで歩き、二両編成の緑の京阪電車に揺られて通学した。
友人との距離感に悩んだり、恋に一喜一憂したり、まだ何も入っていない自分という入れ物に何を入れたいのか、何を入れるべきなのか、そもそも何かが入るのだろうかと不安になったりして歩いた。緑の田んぼも、その上に広がる空も、この何者でもない自分のように空っぽに感じていた。
高校に入って絵を描き始めた。
その頃は描くことが楽しくて仕方なかった…と記憶している。
しかし、先日実家に帰ってスケッチブックを開いてみたら、白紙を「何か」で埋めたいという焦燥感のようなものを感じた。絵の裏にこんな文も書いていた。
それらしいことを言いたい青い時期だよなぁと恥ずかしくなった。
が、それは違うと思い直した。
人はそれぞれの瞬間を懸命に生きている。今の僕が「その人」の「その時」を生きることはできない。だから、分かったような気で「そういう時期」なんて言うべきじゃない。それは過去の自分に対しても。過去の自分はもう他人なんだ。
学生時代は嫌いだった父と、子供たちを連れてその道を歩いた。宅地化が進み、近いうちにここにも住宅が建つらしい。田んぼも空もなくなってしまうらしい。
あの頃、無感動と断じた無限の空間に、今の僕は懐かしさと愛おしさを感じていた。