映像研には手を出すな
この記事も書き始めたのは21年の9月のことで、やっとこさなんとか形になりました。
『映像研には手を出すな』
漫画原作ですが、アニメをおすすめされて観てみました。
当時(この記事を書き始めた頃)は時短やらで時間が有り余っていたので、サクッと観てしまいました。
原作を読んだわけではないけれど、確実にアニメの方が良いです。
だからこそ成立する部分がとても多い。
金森というキャラのプロデューサーっぷりも、それはそれはとても面白く描かれていて、制作の役職の中でなぜ「プロデューサー」が偉いのかが良く分かります。
実際の作品作りをするディレクターや作家が花形と思われがちな世界で、色々な制約なども乗り切らなければならない時、いかにこの役割が重要なのか。
ポップに描かれてるんだけど、芯食ってるんすよね。
と言いつつ、本題はそこではありません。
序盤から常に描かれる、アニメの『設定』への拘りが、人によっては“普通”と思うかも知れない(そう思った人はまぁまぁ変態)けど、とにかく凄い。
序盤に登場するエピソードを簡単に。
二次元でね、風車が描かれてるとするじゃないですか。
それがクルクル回ってれば、絵としては『風車が回っている』という事象が成立するわけです。
でも、ここでただ描かれた風車であっても、羽の角度がこうじゃなければ風を受けても回らないとか何とか、三次元と同じ奥行き、つまり『設定』を追求するんですね。
アニメだから多少無理な動きがあってもいいや、で終わらないんですよ。
そういった、伝わらないし、伝わらなくてもいいし、でも伝わってると凄く嬉しいしっていう拘りというのは、何もアニメだけに言えることではないなーと思いながら観ておりました。
例えば「カッフェ・アメリカーノ」
うちではホットコーヒー、アイスコーヒーと言えばこれ。
ホットの場合には、カプチーノカップにエスプレッソを入れ
別のポットでお湯を用意して
エスプレッソにお湯を足してもらっています。
また、アイスについてはグラスに氷を入れ
そこにエスプレッソを入れ、その上に冷水を注いでいきます。
ここでの拘りポイントは何か。
それは注ぐ順番です。
特にホットの場合かと思いますが、
カップにお湯を入れて、その上にエスプレッソを落とすやり方があります。
構成されている中身は全く一緒です。
が、これはオーストラリアのコーヒー文化における「ロングブラック」になるわけです。
注ぐ順番が違うだけで、味わいが変わります。
以前Instagramでラテ・マッキャートについて投稿したことがありますが、それと似た原理。
で、2年弱も寝ていたこの記事を、なぜ書き切ろうと思ったのか。
最近、雑誌やテレビなどの仕様もない部分が目立ちすぎていて、
『本質を捉えることの大切さ』について考えていたからです。
とある雑誌から「ナチュールワインの企画」で取材依頼が来たのですが、
「ナチュールワインという文言なら無理です」と、『ワインのあれやこれや』という記事でも触れた内容を長々とお伝えして、返ってきたのが「ワインバルの企画」ならどうか、と。
嗚呼、駄目だ。
そんな言葉しか持ち合わせていないような物書きの取材なんて受けたくない。
そう思い、丁重にお断りしました。
また、別の雑誌を読んでいて「カフェなのにお酒が飲める」という風な文言を見つけて絶句。
喫茶店とカフェを混同してんのかな?
「喫茶店なのにお酒が飲める」ならまだ分かる(ちなみに喫茶店営業許可ではアルコール提供は出来ないので、お酒が飲める喫茶店はちゃんと飲食店営業許可を取っているか、違法かです)。
もし意図があるとしたら、それはなんなのか。
誰か分かる人がいたら教えてください。
坂本龍一氏が亡くなられました。
うちにはテレビがありませんが、ネットニュースで「その訃報を伝える際に、各局でYMOの『RYDEEN』が流れていた」と(もちろん戦場のメリークリスマスなどもたくさん流れていたのでしょうが)。
確かに坂本氏はYMOのメンバーで、YMOの代表曲である。
今のディレクター陣は恐らく世代じゃないのでしょうね。
だとしても、マスに物事を伝える立場として恥ずかしくないのだろうか。
本来「東風」とか「テクノポリス」が流れた方が適当な場面で、知名度優先で「RYDEEN」をかける。
と、受け手のマスは「これも坂本龍一の作品かー」って勘違いする人が増えちゃうじゃないですか。
YMOの楽曲ではあるけれど、作曲は高橋幸宏なのに、だ。
それは高橋幸宏にも失礼である。
1月に散々やったばかりだろうに。
番組クレジットに自分の名前が無くてもいいタイプの人なのかも知れませんね。
本気でやってることを、気軽に愚弄しないでほしい。
本気の仕事が、僕は好きだ。