いくつもの地平を越えていく
人にはそれぞれ、自身がすむ界隈や位相があり、そこに拠って立つ各々の観念形態がある。人はそれの及ぶ範疇で、世界のかたちを認知している。イデオロギーという言葉が近いのだが、すこしちがう。
考えた結果、それを表すには「地平」という語彙がしっくりきた。人はみな己の地平を持っていて、己の地平に生きている。生まれた地、育った家庭、通った学校、就いた職業、細分化すれば読んだ本や観た映画…といった要素が地平にかかわる。なので、自身の地平は世界にひとつしかないものの、距離の近い人どうしでは似通ったものにもなる。
どうしてこんなことを書いているのか。それは自分の中の世界しか知らず、外にあるものを探しに行かない人がこの国には多すぎると感じるからだ。別の言い方をすれば、己の地平から出ないで、己の地平によって苦しめられている人が多すぎやしないかということだ。自分は今まで、あらゆる地平に生きる人たちに会い、常にみずからの地平を越えようとしてきた。職業や学歴など日本の中での社会階層のみならず、オセアニア、インド、東南アジアなど13ぐらいの国と地域を訪れた。難民キャンプの子ども達からダライ・ラマ14世まで会って話をした。その中で、現地の社会や人々を幸せで羨ましいと思うこともあれば、不幸で可哀想だと思うことも勿論あった。ただ時間と経験と共に見る目も変化し、以前は幸せだと思っていたことが後にあれは不幸だったんじゃないかと思うこともあれば、その逆も然りだった。
何にせよ自分の場合は、異国の地へ行くという物理的な移動をとおして、気付けばみずからの地平を越えたり、拡張させたりといった結果が出来あがっていた。色んな場所で色んな人たちが色んな地平を生きている。色んな人生があり、色んな幸不幸があり、それらを見て考えることは無限に湧いてくる。人間は人間である限り考え続けなければならないが、その考える作業こそ「地平を越える」ことなんじゃないかとか思う。
再度いうが、自分の中の世界しか知らず、外にあるものを探しに行かない人が多すぎると感じる。そういった人たちに自分は言いたい。己の地平を越えていけ、さらば道は与えられん…と。