決断とは
どうやら、多くの人にとって決断とは非常に困難を極め、長い時間を要するらしい。
ということに最近気がついた。
なぜなら、私の人生はいつも即決の連続だった。
留学すると決めた時。(誰もそんなこと信じてなかった)
長子を生むと決めた時。(当時、大学生だった)
離婚すると決めた時。(結婚して片手で数えられる月数だった)
教師以外の道に進むと決めた時。(他の職業をほとんど知らなかった)
再婚すると決めた時。(ま、なんとかなるだろ、と思った)
などなど....
悩む時間がもったいないと思っている節もある。
それ以上に、直感ほど優れているものはないと思っているフシもある。
直感と決断
私の人生において、直感は非常に意味のあるものだ。
よくないことが起こりそうと思った瞬間、大体起こる。
わけもなく楽しい気分になる時、大体いいことがある。
晴れるな、と思えば晴れるし、なんか嫌な感じだな、と思えば荒天になる。野生の感が優れているのかもしれない。
わいるどだろぉ
私の人生は独立した私だけのものであり、他のものに干渉されない。
されるべきではない、という信念は幼少期より根強くある。
また、自分の人生において、今の自分を好きだと思えないシチュエーションは排除すべきであるとの思いもある。
だから、その環境にいる自分を好きだと思えなくなれば、誰が何と言おうとその環境を捨てる決断ができる。そのことに自信はある。
降りかかる災難に対し、いつのまにか乗り越える力がついていた。
それは、地元で最底辺と揶揄された地域で、中学生までに酸いも甘いもあらまし経験したからかもしれない。
就学直前に祖父が亡くなり、祖母が荒れていく過程を小学生で目の当たりにして人間の脆さを知ったからかもしれない。
小学校高学年時には既にかなり斜に構えて世の中を見ており、知ったような口を聞き、ハナから達観したような気配があった。
でもそれが私だった。
だれが否定しようが私は私だという意識に揺らぎはなかった。
きっと誰よりも頑固だったし、誰よりも他人に興味がなかった。
だからきっとたくさんの人を傷つけただろう。
私を嫌う人も多かった。でもそんなもんでしょう、人間なんて。
嫌うなら嫌えばいいし、どこかウマがあって好きになってくれたら、ありがとう、という感じ。
他をできるだけ排除することで、直感は磨かれたのかもしれない。
とにかく自分のために、あるべき姿を求めて。
それは時に周りからは不快に映るのかもしれない。
しかし、それも仕方のないことだと思う。
なぜなら自分は2人といないのだから、同じ感覚を共有することもできないだろう。
夫に対してもそうだ。
彼は私とは違う人間だ。それで幾度となく衝突が起こる。
それも仕方がないのだ。私が言うことに何の意味があるだろうか。
彼の課題は彼にしか解決できないのだ。
上辺だけの言葉を並べるくらいなら、何も言わない方がいい。
それとは逆に、これは言わねばということは嫌われてもいいから言おうと思う。
私が散らしていったヒントがどこかでその人の役に立つなら、それでいい。
役に立たなければ、それまで。
でも言わないで後悔するよりは言った方がいいし、やらないで後悔するよりはやったほうがいい。失敗したらその時考えればいい。
ここまできて、ふと思ったが、もしかしたら決断を下すには、己への信頼感が必要なのかもしれない。自分を信頼していれば、自分の決断に対するゆらぎが少ないのかも。
そう考えると辻褄が合う。
私はいままで誰よりも自分を信頼してきたし、自分を好きでいた。
そしてこれからもそれは変わらないだろう。
なお、自分を信頼しているから、他の人間を信頼しないというわけではないし、自分が間違っていることもあるということは知っている。
間違っていることもあるとはいえ、自分を卑下する必要はない。
自分を信じられなくなった時、人は迷うのかもしれない。
そう考えると自分を信じられず迷う人のいかに多いことか。
そうすると「あなたは強いからできるのよ。私にはできない」と言われたことが少し理解できる。
私は決して強くないから、ずっと理解できなかったけれど、
<強い=自分を信頼している>
と言い換えればわかる気がする。
まあ憶測でしかないか。
結局は無駄が嫌いなのだ。
クヨクヨと悩んでいる時間。
何も解決もせず動き出しもしない時間。
どっちつかずで日々が終わっていく時間。
そんなことに費やすくらいなら、どちらかの道に動き出して、そこで得たものを元に身の振り方を考えたい。
そうやって生きてきた。これからもそうやって生きていく。
どうあがいても決断の連続で人生が進んでいくのだから。
私はこれからもほとんど迷わずに決断していくのだろう。
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