リウマチであるということ
リウマチであるということが当たり前の生活。
だけど誰かの前ではわたしはリウマチじゃない。
たまにはまだ、リウマチではない自分でいたい。
ほんとうは誰にも話したくないけれど、
辛くて痛くて悲しくて、わかってもらえるかなと期待したりして、つい話してしまうときがある。
話さなかったらよかったな。痛みを苦しみを
おんなじようにわかってもらうことはこんなにも難しい。
わたしがわかってもらえないと嘆くときに、
わたしがわかることができない多くの物事に思いをはせる。
みんながおんなじ人間であるとして、数えきれない病気や痛みや苦しみ悩みを、すべて共有共感することはできないことは、とてつもない絶望だ。
からだの一部が痛いと、つい考えがどんどん膨らんでしまう。元気なときに、少しだけリウマチのことを考えなくていい時間が貴重だ。
幸せじゃないわけじゃない。わたしだけが辛いわけじゃない。だけど苦しいときは弱音を吐かせてね。
リウマチについて、調べれば調べるほど怖くなる。
なんてややこしい病気になってしまったんだろう。
好きなことを仕事にしてきた人生を、一度終わらせようと思っている。活動休止。好きじゃないことを仕事にして、果たしてどんな人生になるのかな。
これからどうなっても、いま好きなことを嫌いになるような人生にはしたくない。
メトトレキサートに助けられて、でもからだが蝕まれている気もしてて。
雨の日はとてもつらい。許されるならずっと寝ていたい。人生は短いかもしれない。なのに貯金はしなくちゃいけないしね。
誰がわたしをかわいそうというときに、かわいそうじゃないと胸を張って言えるようになりたい。
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