陰陽師〜月詠の巫女〜 第一章
秋風が枯葉を運び、街の中を通り過ぎてゆく。授業が終わり、静かだった校門が賑やかな声で溢れ出した。
多くの生徒たちが街の西にある駅の方へと向かう中、その流れに逆らうように反対側へと歩いてゆく少女たちの短いスカートが風に揺られてひらりと舞う。そんな彼女たちの興味をひくのは、もっぱら恋愛話と芸能人のゴシップ、そして、最近巷でおこっている奇妙な事件の噂話だ。
「ねぇ、聞いた?うちの学校の女子。また犬に襲われたんだって」
「あの神社でしょ?山の近くの。あそこっていつも薄暗いし、怖いよね」
「学校の帰り道だし…遠回りして帰ろう?ね?」
街のはずれにある古びた神社では、生徒たちが怪我を負う事件が度々おこっていた。
被害にあった者の記憶は不確かで「犬のような大きな黒い影に襲われた」と言う者もいれば、「とてもこの世のものとは思えぬ、あれは妖怪だ」という者もいた。
山間に位置するこの街は、夕暮れ以降は灯りも少なく、まわりを取り囲む山の暗さが街全体を飲み込んでしまう。不思議な出来事は妖の仕業だとされ、暗がりには近づくなと、子供たちは言い聞かせられて育った。
怖がりながらもどこか楽しげに話す女子高生たちの側を、一人の男子学生が音もなく通り過ぎた。参考書を眺めながら歩くその顔つきはどこか寂しげで、かげりを帯びた瞳は、流れが淀み、底の見えなくなってしまった川を連想させた。
陰陽師の血を受け継ぐ坂上家の一人息子。坂上慎之助。それが彼の名前だった。
妖怪が見える血筋のせいで、慎之介は幼い頃から人との違いを意識せずにはいられなかった。他者には見えぬ存在に慄き、助けを求めては嘘つきと呼ばれ、冷たい視線がまだ幼い彼に容赦なく突き刺さった。その傷跡は繊細な幼心に深く残り、彼に周囲の人間への怯えを覚えさせた。そうして心を閉ざし、いつしか、一人でいることがこの世界で穏やかに生きる術なのだと知った。
彼には同級生たちの朗らかな何の変哲もない日常が、ガラス戸を隔てた何処か遠くの世界のことのように感じられた。慎之介にとって、彼らの日常はあまりにも平和で、眩しすぎた。
だから、こうして一人静かに過ごすことが多かった。
慎之介は、女学生たちの明るい声色から意識を逸らすように、参考書の文字を目で追う。
と、その時、背後の茂みでカサカサと物音がした。
「なぁ、にいちゃん。あいつじゃないか?おんようじのガキってさぁ」
甲高い子供の声だ。小さな体に、鬼灯(ほおずき)のような橙色の袖なし半纏を羽織り、無邪気にはしゃいでいる様がとても愛らしい。しかし、赤毛混じりの茶髪の頭をよく見ると、その細い髪の隙間からは禍々しい角がのぞいている。それは、紛れもなく小さな鬼だった。子供の姿をした鬼は、頰を赤らめながら、隣に佇む一回り背丈の大きな鬼を見上げた。
「ばか、陰陽師だよ」
鬼は呆れたように、ぽんと子鬼の頭に手をおいた。
「人目につかないところであいつを捕らえないと、大騒ぎになる。こんな所で騒ぎを起こしたら、閻魔様に叱られちまうぞ」
こちらの鬼は、漆(うるし)を混ぜ込んだような漆黒の袖無し半纏に身を包んでいる。鋭い切長の目がとても印象的だ。肌寒い季節にも関わらず、大胆に露出した腕は浅黒く、髪は紫に染まり、異様な雰囲気を纏っていた。鬼は、はしゃぐ弟分を嗜(たしな)めるように囁いた。
「あそこの神社まで行けば俺たちの縄張りに入る。それまであいつに気づかれないよう、こっそり後をつけるんだ」
「はいな。おらっち頑張るよ!今度こそ閻魔様に褒めてもらうんだ」
二人の鬼は茂みから抜け出し、ゆっくりと慎之助の背後に忍び寄った。
慎之介は困っていた。最近、妙な輩に付け回されている。相手が妖怪の類であることはわかっているのだが、妖にしてはどうも邪気がなく、まるで人間の子供のようでやりづらいのだ。ちらちらと後ろを確認するが、その度に物陰に隠れているようで、なかなか姿を表さない。ここ数日、繰り返し行われている攻防戦に半ば飽き飽きしていた慎之助は、思いついたように歩みを止めると、相手を少しからかってやることにした。
地面を踏み締めるようにゆっくりと一歩ずつ歩き出す。すると、彼らも同じだけついてくる。
一歩。また一歩。だんだんと歩く速度を速め、ついには駆け出した。通りを突っ切って、四つ角を右へ曲がったところで、木の影に隠れじっと様子を伺う。息を潜め、しばらく待っていると、ドテッと何かがこける音がした。見ると、子鬼が地面に突っ伏している。
慎之介は思わず吹き出しそうになるのを堪え、ゆっくりと木の陰から姿を現した。
「そこの子鬼。いい加減、俺に構うのはやめてくれないか」
子鬼は大きく目を見開き、びっくりした様子で固まっている。まさか気づかれていたとは、とでも言いたげな表情だ。はっと我に返り、両手をぎゅっと握り締めると、意を決したように立ち上がった。
「う、うるせー!お前がその玉をこっちに渡さないからじゃないか。つべこべ言わずに、さっさと竜の玉を寄越しやがれ!」
子鬼は精一杯虚勢を張りながら、慎之介のことを威嚇してくるが、愛嬌に溢れた声色に、なんだか拍子抜けしてしまう。だが、その背後から出てきた鬼の威圧感にすかさず身構えた。鬼は、鋭い眼差しで慎之介を睨みつけ、低く響く声で言った。
「お前ら人間を傷つけたくはなかったが、仕方ない。もう時間がねぇんだ。次の満月までに龍玉がないと、霊界と人間界はめちゃくちゃになっちまう。渡さないっていうんなら、力づくで奪うしかない」
鬼は背中に担いだ妖刀を抜き放ち、片足を後ろへ引くと、肌がひりつくような殺気を放った。鋭く尖った刃先は幾重にも分かれ、少しでも触れればすぐに皮膚が裂けてしまいそうだ。
慎之介は思わず息を呑んだ。緊張で喉が渇いてくる。
しかし、気を強く持ちなおすと低い声で言い放った。
「この玉は渡せない」
いつもは静かな慎之介の瞳が、はっきりとした意志を持つ。
「ご先祖様から預かった大切なものだ。それに、この手に仕込まれているから、自分では取り出せないんだ」
龍玉は気づいた時には己の内側に巣食っており、以来ずっと共に生きてきた。自分の力でどうこうできるものではなかったのだ。
「なら、その腕ごと切り落とすまでだ」
次の瞬間、鬼がふと視界から消えた。慎之介の瞳孔が驚きで開く。風を切る音と共に、鬼が疾風の如く地を這うように凄まじい勢いで襲いかかってくる。慎之介は反射的に身を捻り、軽やかにうしろへと飛びのいた。すかさず、鬼の妖刀が目の前を掠める。髪の毛一本の差でそれをかわし、乱れた体勢を整えるため低く屈んだ。静寂の中、両者の間に緊迫した空気が流れる。互いにいつ敵が次の動きをとるか見定めているのだ。鬼は蛇のように目を細め、ジリジリと慎之助へと詰め寄ってくる。刹那、空気が止まったかと思うと、一瞬にして鬼は慎之介の目の前に迫っていた。鬼の眼は、慎之介の左手、竜玉の在り処を捉えて離さない。
まずい、避けられない。
そう思った矢先、
「にいちゃん、やばいよ!向こうから人が来るよ!」
側で見ていた子鬼が叫んだ。
鬼の視線がほんの一瞬逸れる。
慎之介はその隙を見逃さなかった。すかさず飛び退き、鬼から距離を取った。
「ちっ。仕方ねぇ。さっさとずらかるぞ!」
「はいな!」
鬼は舌打ちをし、妖刀を素早くしまうと、身体を翻して去っていく。
二人の鬼の影は、夕闇の中へと消えていく。後に残ったのは、木々のざわめきだけだった。
薄暗くなってきた空に呼応するように、街灯が灯り始める。
慎之介は息を整えながら、ズボンについた砂埃を払い、地面に落ちた参考書とカバンを拾い上げた。
危なかった…。
あの鬼たちは、他の人間に悪さをしないだろうか…。
そう懸念しながらも、先程までの緊張が解けたことでどっと疲れが押し寄せてきた。
左の手のひらをゆっくりと開いて、そこに浮き出たものを見つめる。
「龍玉なんて、俺にはどうしようもないんだがな…」
掌の真ん中に太々しく居座る盛り上がったあざのような浅黒い刻印に、慎之介は重いため息をついた。
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