陰陽師〜月詠の巫女〜 プロローグ

記憶に残る母の声は、ひどく柔らかく、生きているものが発するにはあまりに不確かで、不安になるほどに澄み切っていた。

「八重。いらっしゃい。こっちよ。ほら、こんなに桜が咲いて、綺麗でしょう?」

 春の月光は鈍く光り、薄桃色の花びら一つ一つを仄(ほの)かな銀色に染めてゆく。母の艶やかな黒髪が、やわらかな風に吹かれさらさらと揺れた。

私の手を取り歩く母の体温と、春の夜の空気に包まれて、うっとりとまどろんでしまう。輝く神木の下に立つ母は、この世のものと思えぬほどに美しかった。
 
大木を見上げると、はらはらと舞い落ちてきた小さな花弁が頰にはりつき、ひんやりと冷たい。そっと手にとると、その優美さに思わず見惚れてしまう。

「ほんと…本当に綺麗ね…」

  溢れる光とともに、絶え間なく降り注ぐ多幸感に包まれ、足がひとりでに透き通る桜へと吸い寄せられた。ふと気づくと、母の姿がない。
「母さま?母さま、どこにいるの?」
 
さめざめとした月明かりの下、母の手のわずかな温かさを求めるように、あたりを探し回った。
 母の姿は空気に溶けて、声だけが響く。

「八重。桜の木を守って。千年に一度、この桜は蓬莱の花を咲かせる。輝夜は蘇るのよ」

「母さま、何処なの?母さま、かあさまーーっ」
 
薄闇の中、微かに聞こえる声に導かれるように、だんだんと意識が遠のいていく。
 必死にもがいた。暗くなる視界に消えゆく存在を、失いたくなくて。
 
 桜を、守って…。
 
突然つむじ風が吹き込み、巻き起こる桜吹雪に包まれるようにして、目の前が真っ白になった。
「かあさま」
 
 窓から差し込む陽の光を感じ、ゆっくりと目を開ける。頬を伝う雫をぬぐい、ああ、またこの夢かと思う。
 幼い頃から繰り返し見るそれに出てくる母は、いつも儚く、散りゆく桜とともに、消えてしまいそうだった。 
    あれは、私の記憶なのか。
 それとも、幼い頃に亡くした母への募る思いが見せた幻影か。
 母は、本当に生きていたのだろうかー。
 気怠さの残る身体を寝床から起こし、布団を整える。幼き日よりも随分とのびた髪を結い、巫女服に袖を通した。微かな風を感じ、ふと、窓の方へ目をやる。
 四角い窓の縁からちらりと覗く境内の隅には、夢でみたのと同じ桜の木が今もぽつんと立っていた。満開だった桜はその花弁の大半が散ってしまい、裸の枝の中にわずかに仄めく白さが、侘しい。
 八重は気を引き締めると、部屋の戸を開け、境内へと歩き出した。
 月詠神社の巫女としての役割を果たすため。消えた母が残した願いを叶えるために。


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