ノンアルコールビールの日

 禁酒しよう。

 薄曇りの広がる日曜の昼前。アパートの窓から白い空を見上げながら僕はそう思い立った。

 これきり酒をやめようというわけではない。考えてみるとこのごろ飲みすぎていたのだ。金曜夜に友達と飲みに行き、土曜は昼からBBQに参加して当然夜まで酒を飲んだ。そのような会の常として、余った酒を分けて持ち帰り、そうすると次の日も飲んでしまう。

 現にいまも僕の手にはキリン一番搾りの缶が握られている。まだ十分に冷たさを保持したこいつを直接口に流し込んでみると、炭酸を帯びた爽やかな苦味が喉を通り抜け、しゅわしゅわと胃の腑に到達する。炭酸の刺激がおさまった頃、口に残るのはまろやかな酸味。そして我慢していた吐息を漏らすと鼻腔いっぱいに麦の香りが花咲く。嗚呼、本物のビールがここにある……
 しかしながら僕は考える。いまこの時、この飲み物の真のポテンシャルを発揮させているとは言い難いのではないか。

 本来はこのようにのべつまくなし酔うために飲むものではなく、例えば仕事帰り、労働の汗水をシャワーで流して部屋着に着替え、季節のコーディネートを加えたダイニングのテーブルに小鉢のつまみなぞを複数用意し、薄づくりのグラスに注ぐなどして恭しく味わうべきであろう。
 加えてその味わいを十全のものとするためには体調も重要となる。前日のアセトアルデヒドも処理しきっていない麻痺したような舌と頭でなぜその真価が分かろうか。
 人生に最高の一番搾りを添えるため、これからは酒の抜けた万全の態勢で晩酌に挑む必要があると気付いたのだ。

 というわけで期間限定の禁酒を思い立ったのだが、しかし一つ懸念が残る。我慢できなくなったらどうしようということだ。いやまあ我慢はするつもりだけど物事には万が一というものがあり、二十四時間酒の手に入るコンビニも近所にある。便利すぎる世の中も考え物だ。
 何か備えはできないかと少し考えて、思い付いた。飲酒運転に厳しくなった昨今、ドライバーも飲める『ノンアルコールビール』というものが急激に市場を広げている。需要の高まりにより商品改良も進み、いまではビール党も納得の質まで高まっていると聞く。それを代替にすればいいのだ。そうと決まれば早速調達に行くしかない。
 その日は昼寝を挟んで午後スーパーに向かうことに決めた。

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 近所の業務スーパーに到着し、酒類コーナーへと赴く。
 ノンアルコールということでまず割り物類のあたりを見て行くが、それらしきものはなかなか見つからず、代わりに見覚えのある茶色い瓶に気付いた。
 どっしりと横に広いボディに白のステンシルでロゴが描かれ、王冠には色違いが二種類ある。そう、ホッピーだ。

 ホッピービバレッジ株式会社が製造するビール風味のノンアルコール飲料で、これで焼酎を割って飲むのがスタンダード。
 居酒屋ではホッピー瓶とジョッキ入りの焼酎のセットで提供されるのが一般的で、客が手ずからジョッキにホッピーを注ぎ入れて完成させる。
 通常ジョッキ一杯に対して一瓶は使いきらないため、一杯目を飲み終えたら「中(ナカ)」という符丁で焼酎のみの追加注文ができる。そこに残ったホッピーをまた注いで飲むのだ。

 大衆酒場の安酒というイメージが多少ある本品だが、メーカー推奨の焼酎ホッピー1:5という割合で割ったらそんなに安くはつかない。しかし僕がよく行く立ち飲み屋では一杯目こそ穏当な量の焼酎が出てくるのだが、二杯目以降は店員がチューブ付きのペットボトルみたいな謎の入れ物で持ってきて、飲み干したジョッキにドボボっと適当に継ぎ足す。それが本当に適当で、ジョッキの六割くらいの高さまで達することが往々にしてある(まあ氷で嵩も増しているが)。
 そんなとき僕は「もう、多すぎだよ(ハート)」と困った声を出しつつ、ほくほく顔で鼻を刺すアルコールの味を楽しむのだ。こういう店だと一瓶四杯くらい飲めて非常に安価で酔える。

 そういえば……。家には焼酎があることを思い出した。これを買って帰って今夜は一杯……いやだめだ、禁酒だ禁酒。目的を見失いそうな自分を叱りつけてそこを離れた。

 ノンアルコールビールは缶ビールと同じ並びで販売していた。主要メーカーは各社何種類も出しており、海外メーカーのものもあって売り場は賑やかな様相。どれを選んでいいか迷う。
 眺めているうちにふと思いついた。先ほどのホッピーを、焼酎を割らずにそのまま飲めばノンアルコールビールにはならないのだろうか。
 気になってスマホで調べたらホッピーは単体でもアルコールが0.8%含まれるらしい。それがいかほどかは分からないが、やはり0%のものの方がいいだろう。

 一つ僕にとって大きな判断軸になるのは「人工甘味料」である。ノンアルコール飲料は健康志向の人々に訴求したい故かどうも「ノンカロリー」にもしたがる傾向があり、その場合は人工甘味料で味が調整されていることが多い、あれは個人的に苦手だ。

 そしてついに見つけた。人工甘味料、着色料、アルコール三つの「零」と、「一番搾り製法」を全面に押し出した、キリンの「零ICHI(ぜろいち)」である。

 デザインも謳い文句もまさにあの一番搾りのノンアルコールチューンだ。人工甘味料不使用だし間違いはないだろう。迷わず6缶パックを購入してスーパーを出た。

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 夕闇が迫り、薄曇りの隙間から鮮やかなオレンジが降っている頃、近所の公園に辿り着いた。中心に鎮座する巨大な遊具の石山に登り、頂上にある小さなベンチに腰掛ける。街を一望、というわけにはいかないが、ここからでも低層の住宅街方向にはずいぶん空が開けて見える。
 僕は時折ここにきて缶チューハイを開けたりするのだが、今日はノンアルコールだ。鞄の中から薄クリーム色の缶を手に取りプルタブを一気に押し開ける。開いた口から琥珀色の小波が見えた。
 西の空でぼやける夕日に乾杯を掲げ、逸る気持ちを抑えてゆっくりと口に運ぶ。

 喉を通った第一印象、それはまさに「一番搾り」である。爽やかな苦みと顎のあたりに残る酸味はそのまま、後味のまろやかさはやや抑え気味な代わりにキレが増している。そしてまた胸で弾ける炭酸に思わず吐息を漏らすと、間違いなくあの麦の香りが花咲いた。
 それら全て本物に劣るものではなく、ドライバーや禁酒中の僕だけでない、下戸の人でも十分に「一番搾り」の本質を味わえるのではないか。これはもはやビールの代替品ではない、新たなジャンルの麦飲料として昇華された感すらある。

 なんととんでもないものを見つけてしまった。僕は夢中で飲み進めながらつまみの一つも買っていないことを後悔したが、それは家に帰ってゆっくり楽しめばいいと思い直した。
 そして最後の一口、再び乾杯を捧げようと西を見ると、にわかに雲が切れて空が顔を出している。オレンジと紫が溶け合う黄昏の狭間に、神獣・麒麟の姿を垣間見た気がした。

 そのあとは残った五本とともにアパートに帰り、風呂を済ませてから早速缶を開ける。二口、三口と飲んだあと、僕はそれで焼酎を割って飲んだ

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