ぷに子のプロフィール♪ ~町から一歩も出なかった少女が、家族旅行で生きる喜びを見つけた物語~
はじめまして😊ぷに子と申します。
まず、こちらにご訪問くださりありがとうございます💕
最初に簡単な自己紹介からさせてください。
私は地方在住で、主人と2人の小学生の息子達と一緒に暮らしてます。
主人とは共働きで、仕事は貿易事務としてパートで働きながら、副業中( ˘ ³˘)
副業では、年3回家族旅行へ行けるコンテンツ制作や
ありのままで収益化していく過程を発信をしています。
そして、
2022.5/2に32名の方にモニターへご協力いただき
作成した初の有料note
「家族4人でハワイや沖縄に行けるマイル術♪」
を、2022.06.26に発売しました✨
自己紹介noteには、
私がなぜマイルnoteを作ろうと思ったのか、
家族旅行が一人の少女にどんな影響を与えたのか。
マイルに出会うまでのいきさつや
幼少期から今に至っての生い立ち。
noteにこめた思いを物語風に書いてみました!
最後まで読んでくださるとうれしいです♪
幼少期
4人兄弟(姉妹)の一番上として地方の田舎で誕生しました。
母は常に妊娠していて、ほとんど相手にしてもらえず。
田舎のため近所に遊べる幼馴染もいなくて、
いつも2つ下の妹と2人で過ごす日々。
父は単身赴任をしていて、週末は帰ってきていました。
平日は母のワンオペ育児。
向かいに祖父母が住んでて、私はしょっちゅう遊びにいっていました。
祖父は電気屋を経営していて、祖母は体が弱く、お世話をしてくれるってことはなかったです。
が、ほかに行くところもなく習慣のように遊びに行くって感じで。
「ワンオペに祖母のお世話で母は本当に大変だっただろうなー」
と今となって思います。
3月生まれだったこともあり、幼稚園へは年中から通い始めました。
冬は上半身裸で乾いたタオルで体をこする?寒風まさつを毎日強制が売りの幼稚園。
夏は全身裸で体中に絵の具を塗りあうインディアンペインティングが売りの幼稚園。
はい。全然なじめませんでした。
幼少期ながらにかなり衝撃だったのを覚えてます…笑。
背の順も一番前でガリガリで、この子大丈夫?って感じだったかもです。
こうして自分の町からほぼどこにも移動することなく小学生にあがりました。
小学生
幼稚園メンバーも半分以上はそのまま同じ小学校へあがりました。
小学校への通学は30分以上徒歩でとてもしんどかったです。
「給食を全部食べ終わるまで残さず食べなさい!」
と1年生の担任の先生には言われ、給食のあとの昼放課の時間まで後ろの席で一人で給食を食べる日々…。
母は4人目を小学1年生の時に出産して、父は相変わらず単身赴任が続いていました。
あ、でも毎週末必ず帰ってきていましたね!
父は怖かったです。
だから週末がとにかく苦痛で…
母は、気に入らないことがあると父にチクり、父から毎週のように怒られる生活。
はじめて、小学2年生の夏に家族旅行へ行きました。
父の会社の保養所のようなところでしたが、ログハウスもありプールもあり
まさにパラダイス✨✨
当時父は運転免許を持っておらず、電車で2時間くらいかけて行きました。
この家族旅行は、はじめてすごく楽しい!と思えた瞬間。
「この世の中に、こんなに楽しい世界があるんだ!」
と、とにかく感激しましたね。
この保養所には毎年夏になると必ず連れてってもらっていました。
毎年2泊して、妹とも、普段の生活でもこの保養所の話題ばっかり!
小学校生活は、30分以上の通学と習い事の毎日。
3年生くらいからやっと一番前の背の順から3番目くらいになりガリガリではなくなっていました♪
5年生で初めて家族でスキーに行きました。あいわゆる8の字すべりは卒業できませんでしたが、
「スポーツ苦手でもスキーは楽しい!」
スキーが好き^^(ダジャレ笑)
その後も毎年のように雪山に行くようになります。
中学生
同じメンバーがそのまま中学へ進学。
代り映えはしませんでした。
高学年の時、父が単身赴任先から戻ってきて、早速自動車学校へ通い始めました。
免許を取った瞬間、父はタウンエースを買いました。
そして、毎年家族でスキーに行く生活。
日帰りで行くこともあったけど、2泊で民宿に泊まって行っていました。
昔ながらの民宿でしたが、すごく安くてご飯がおいしくて。
父は気に入ると同じところばかり行く習性があるので、同じスキー場に隣接したこのお気に入りの民宿へ毎年2泊。
昔に比べて父は丸くなり、このころには大分普通に話せるようになってましたね~。
母はとても倹約家でいつも貯金ばかり気にしていました。
服も全然買ってくれず、我が家はお小遣いもなかったので何も買うこともできずいつも同じ格好だと馬鹿にされていました涙。
そんなこともあり、唯一贅沢ができる父が行く旅行に便乗する瞬間が生きがいに!
懐かしいです。
高校生
高校生になり、お友達付き合いが増えていくにつれ、お小遣いがもらえない生活に不満を感じるように。
たまたま新聞広告で見つけた日給2000円の日曜の新聞配達員のバイトを機に私のアルバイト人生が始まりました。
お小遣いを手に入れた私は遊びに夢中になり勉強はほとんどしなくなりました。
高校一年生の時に初めて家族で北海道へ。
生まれて初めて飛行機に乗りました。
「飛行機に乗って少し遠い場所に行くだけで今まで見たことない景色をたくさん見ることができるんだ」
と、とにかく感激。
祖父の電気屋さんの店番とかしていたこともあり、家電修理にあこがれていた私は理数系に進みました。
しかし、勉強を全然してなかったこともあり理数系の勉強を挫折して大学受験を迷うように。
結局大学進学はあきらめて、高校卒業後に母に勧められるままオーストラリアに語学留学。
憧れの飛行機に乗れることでワクワクが止まりませんでした。
留学先オーストラリアシドニーで悲しみにくれる日々…
高校卒業して、留学先へ到着して最初の1カ月はもう毎日が楽しくて楽しくてバラ色生活でした!
いいのかわるいのか同級生の日本人もたくさんいて寂しいなんて言葉はかけらもありませんでしたね!
もうすぐ2か月経つかな、というある日母からホームステイ先に1通の手紙が。
「ん?手紙??なんだろう」
近況を報告した手紙の内容にかなり衝撃を受けました。
「親友の〇〇ちゃんが大学の寮で亡くなりました。」
中学のとき、いつも一緒にいて高校に入ってもいつも一緒に遊んでいた友人が亡くなってしまったんです。
どん底に落ちました。
なぜ友人に、
「体が良くなるまで大学少し休もう!大学は休んでからでもいいじゃない」
と言ってあげれなかったんだろうか。
なぜ親友が体調を崩しているときに、自分だけオーストラリアに来てしまったんだろう。
後になって、いろいろな後悔が頭じゅうぐるぐるしていました。
結局帰りたくても同じ語学学校へすでにお金も振り込んであり、精神的に不安定なまま1年通うしかなく語学学校へ通っていました。
帰国間際に生まれて初めてオーストラリアのラウンド旅行=一人旅へ。
ラウンド旅行とは、オーストラリアじゅうを巡る旅の仕方です。
留学生は、帰国前にラウンドへ行くことが当時流行りで。
精神不安定な1年でしたが、
「オーストラリアにせっかく来たから旅行するなら今しかない!」
と決断したんです!
外国を一人旅するのは勇気いったけど、旅先でたくさんの出会いもあり行ってよかった~♪
ちなみに思い出に残ってる場所は、
ブリスベンとパース。
いつかまた行きたいです!
進路を決めかねてフリーターから専門学校~そして初就職♪
帰国してから、まず親友の家にお参りに行きました。
改めて本当にいなくなってしまった現実に直面して、やはり受け入れるのには時間がかかりました。
ただお金と時間を過ごしただけになってしまった留学中のお金の工面が大変だったと聞きさらに落ち込み。
お金のことを考えると、簡単に帰国後の進路を決めかねていました。
結局フリーターをしてたくさんのアルバイトを掛け持ち。
そしてアルバイト先で今の主人に出会いました。
自由なフリーター人生は最高でしたが、学校の実習などを頑張る友人を見てると
「やはり今のままではいけない」
という気持ちに。
せっかく英語を勉強したから活かしたいという気持ちもあったりで。
そんな理由で、再び学校へ行かせてもらったんです♪
観光業の専門学校です。
学校では接客業に必要な最低限のマナーなどを学びました。
夏休みは専門学校の実習で
「志摩スペイン村」
というテーマパークへ住み込みでバイトに行ったんです。
遠くで過ごすって旅行や留学しか経験がありませんでしたが、働きながらたまに旅行気分で過ごせることがとても新鮮!
接客業っていろんな好きな人(従業員も含める)とたくさん関われて幸せでした。
そして、
「だれかの旅行をサポートするっていいなー」
って思うようになったんです。
夏休みの実習を終え、その後しばらくして就職活動をして専門学校卒業後、県内のホテルに初就職が決まりました。
4月になりついに社会人になりました。
憧れの接客業 ^^
専門学校からの友人も一緒に同じホテルへ就職が決まったので、出社が楽しみで仕方なかったです。
人間関係は、すごく良かったです!
私の配属先は忙しい中華レストランでした。
宴会場にいるような忙しさと、ランチタイムもあったので毎日行列ができるくらい繁盛していたんです!
1日中お店の中を駆け回る生活。
とにかくふらふらで…
GWもお盆も関係なく電車に乗り、終電で帰る日々…
休みの日は疲れて1日寝ていることもありました。
さらに上司が忙しくなると常に罵声が飛ぶんです。
罵声は次第に慣れましたが、体力的にだんだんしんどくなってきてしまいました。
あんなに好きだった接客業も、次第に違う道をかんがえるようになりました。
そんなあるとき、職安で職業訓練校の存在を知りました。
OA事務科
事務で使うためのパソコンスキルが学べる学校。
期間は半年。
失業保険が、在学中はずっと支給されるんです。
「好きを仕事にすること」
をあきらめて、会社を辞め職業訓練校に通い出直すことにしました。
半年の訓練の末、再就職中に悲劇が…。その後の決断
職業訓練校で、簿記やパソコンの基本操作を学び念願の土日休みの事務職に転職することができました。
仕事は海外出荷書類作成です。
ここでは、今の上司に出会いました。
時間に追われて毎日目標を自分で定めて取り組む「事務」という仕事は、とても楽しくて。
また、土日祝日はお仕事が必ずお休みだったことは何よりうれしかったです!
「友達とかと休みが合うって幸せだーーー」
やっと休みの日に友達と旅行へ行く生活が叶いました。
誰かの車に乗り合わせて週末に近場に旅する、ささやかな念願が叶ったのです!
しかしそんな生活もつかの間、我が家に突然の悲劇が起きました。
母が、突然下血したんです。
母はずっと元気だったのでそんな大きな病じゃない、そのうち良くなる、とそれくらいに軽く考えていました。
しかし、実際は想像をはるかに超える大病だと判明。
母は、大腸がん、ステージ4でした。
そして、若かったこともあり進行も早く余命は半年。
突然の母の余命宣告に頭が真っ白になりました。
その反面、「まさか」という気持ちもあったんですが。
しかし母が良くなることはありませんでした。
ガンはどんどん転移していったんです。
母の希望で春に犬を飼い始め、夏になり父が近場の温泉に1泊旅行を計画しました。
この旅行が、家族6人で行く最後の家族旅行となってしまいました。
でも、母の幸せそうな笑顔は今でも思い出せます!
今思えば最後に行けて本当によかったです。
秋に宣告どおり、母は亡くなりました。
父は母のために実家をリフォームしましたが、母と過ごすことは叶えられず。
ずっとまさかという気持ちがあった私は、
「最後の母との時間をもっと大事に過ごせばよかった」
という後悔にしばらくおそわれました。
しかしあたりまえですが、もう時間は戻ってきません。
「その時その時を精一杯過ごす」
この時を機に、なるべく自分なりにその時その時を後悔のないように過ごそうと考えるように。
その後、オーストラリア時代に中途半端に過ごしてしまったことがずっと心のすみにあったことがきっかけで正社員の仕事を辞めてカナダのワーホリへ行くことに決めました!
父を置いていくということで反対されると思いましたが、年の半分は出張していたこともあり応援してくれありがたかったです。
ワーホリ後帰国してついにマイルの存在を知りマイラーへ。そして結婚 !
1年数カ月、カナダではかけがえのない経験をしてきました。
自分の中でやり切った気持ちで帰国しました!
帰国してから、
「また海外行きたいなー」
とあれこれ調べたりするようになり、
「マイル」
の存在を知ったのです。
遅!!
かなりショックでした。
「1年あちこち渡航したマイルだけで、
どこか海外旅行へ行けたかもしれないのに」
そんなことがありこのころからマイルのこと、お金のことを少しずつ学ぶように。
でも、その頃はまだ何も知らず結局やっていたことってANAカードに集中決済していただけでしたが。
そして、ひたすら
ガマン=美徳
お金をたくさん貯めるためにはたくさん働いてたくさん節約するって方法しか知らなかったです!
そんなこともあり、当時は派遣社員をしながらバイトをしてお金を貯めていました。
最初は、また海外に~なんて思っていましたが、30歳も過ぎたときに掛け持ちのバイトはやめて結婚を決意。
31歳の誕生日に入籍しました。
結婚式はリゾ婚で決定!しかしその後…。
夫婦で旅行が大好きだったこともあり、当時まだ行ったことがなかった沖縄で挙式することはすんなり決定!
最初は、
「二人だけで挙式でもいっかなー」
って思っていました。
が、ありがたいことに両家の家族が沖縄まで来てくれて…
ホテルに滞在しながら挙式することが叶いました。
夕食を兼ねてレストランで食事会・お披露目会もでき、満足のいく1日に。
挙式当日は、あんなにメイクできれいになったのに翌日地元に戻るときにはあっさり元のすさんだ姿に戻っていました笑
そして2か月が経ち、妊娠が発覚。
喜びもつかの間
赤ちゃんが育たず初期流産してしまいました。
流産手術の日。
病院にいくと携帯が鳴ってて。
病院だったので、こっそり出させてもらいました。
その電話は
「父が会社にいるとき救急車で病院に運ばれた!」
という衝撃な電話!
そして、その後あっけなく父は亡くなってしまいました。
花嫁姿は見せられたけど、孫を両親ともに見せることが叶わず…。
「なんでお母さんもお父さんもこんなに早くいなくなってしまったの…」
父と子供と将来3世代で買い物に行ったり外食行ったりすることは、当たり前に叶うことだと思っていたので、
父がいない事実を受け入れるまでに
当時はいろいろ時間がかかりました。
そして正直に言うと、両親がいなくなり、お葬式から何もかも子供たちで全部やらなければいけなくて悲しみに明け暮れる余裕はありませんでした。
本当は父をもっとゆっくり見送りたかったです…。
あれから10年。
時が解決してくれて、今でこそ悲しみからは乗り越えることができました。
父と最後に大好きな沖縄へ行けたことが何よりの思い出になったから、リゾ婚をしてよかったと思っています!
仕事を続ける希望叶わず専業主婦へ。出産して育児に追われる!
入籍から1年が経ち、父のことも落ち着き新婚旅行へ✈
そして、その後妊娠も発覚しました。
仕事を続ける希望は叶わず、専業主婦に…。その後長男が誕生。
毎日かわいい赤ちゃんの成長を間近で見られる育児に価値は感じましたが…1円も稼ぐことができない自分に後ろめたさを感じてしまう日々。
「自分の収入がないってこんなに不自由なんだなー」
なんとか現状を変えたいものの、その後次男を妊娠。
出産して2児の母になり育児でてんやわんやで汗
数年に1回ANAカード決済で貯めたマイルで行く家族旅行と近場をドライブしていく家族旅行だけが生きがいになっていました💦
息子たちが大きくなり、私の理想をマイルで叶える日々。
次男が1歳になってやっとパートに出ることができました!
息子たちが成長して、育児にも少しずつ余裕が…。
「家族が増えてANAカード決済だけでは
家族旅行へ行けるマイルはなかなか貯まらないな(~_~メ)」
そして、息子たちの成長に伴い、家族旅行へ行く必要マイル数も増えていきます。
もっとマイルを貯めれる方法をあれこれ調べるようになり、
ついに
「マイルを爆速で貯める方法」
を知ったんです!
目からうろこでした。
今までANAカードに集中決済してて何年かに1回マイルが貯まればいいかな、って感じだったのが一気に10数万マイルが貯まりました。
そして、2017年には北海道・2018年には沖縄へ家族分の特典航空券で行くことができて。
家族で飛行機を使った旅行へたくさん行きたいという私の夢はマイルのおかげでそこまでお金をかけずに叶ったんです!
「どうやってマイルを貯めたの?」
その方法をnoteに詳しく書いています♪
2022.06.26年に発売した
【家族4人でハワイや沖縄に行けるマイル術】です!
そして、このnoteをTwitterから
初日で30部販売するまでにTwitterで何をしてきたか。
0から1000人までフォロワーを増やす方法や、
弱小アカウントでもできる
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ぷに子より
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