道東行(1)地誌の終焉
2021年2月6日13時50分。僕は車酔いしてしまうと思って、その論文から目を離した。
2012年製の中古のコンパクトカーの車内では気丈な妻が1人、フロントシートで運転している。後部座席には2人。僕の隣には3歳児が1人。チャイルドシートに座り、手には大好きなタクシーのおもちゃを握り。妻は、これから4日間のワンオペ地獄。彼女が喉から手がでるほど欲しい1人の午後。
14時08分。近所の駅に到着。まだ上手く話せない3歳児とは、手を振って別れる。妻の顔に笑顔はない。誰かの時間を奪って作る自分の時間。これが僕の道東行(どうとうこう)の舞台裏。
14時22分。旅には音楽がつきもの。モノレールに乗って、イヤホンをつける。携帯のアプリを開いて、若い頃によく遊んだゲームのサントラをクリック。外にいるのに自分だけの世界を浸る。これが現代の旅人の世界。
14時35分。空港に到着。気品のある航空会社のカウンター。空港のトイレも近未来的。有名デザイナーが設計したかのような鋭角に尖った純白の便器。壁には黄緑の差し色が入って、間接照明がトイレを美しく照らす。トイレの壁には小さな四角い箱。Excellent, Good, Normal, Bad。「トイレの感想を教えて」とのこと。指で押して感触で伝える。「凄いトイレでした」と言わされているような感覚。いいねの多い人が天国にいける時代。
15時03分。東京行の乗客たちは、シックな出で立ちが多い。心なしか裕福な客が多い気すらしてしまう。他の航空会社とは格が違うっていうのをみんなで演出している感じ。僕もそうしたモブの1人。貧しいけどモノクロームのシックな出で立ち。心地よくみんなの中の1人。搭乗口の大きな4Kのテレビ。冬季オリンピックの季節。画面にはスノーボードが映る。盛り上がらないオリンピックでも、昨今では比較的明るいニュースの一つ。搭乗口に並ぶ椅子に、たくさんの客たちが並ぶ。一際輝きを放つ白いセーターの女性。座っている椅子の前に3人の男たちが群がる。感染症が流行しているのだから離れればいいのに。格好つけて足を組んで、興味なしを気取る。鮮やかな花に群がる働き蜂。まずは西から東へ。
15時36分。暖房の効いた飛行機のなか。最前列に鎮座するファーストクラス。見え隠れする階層社会。次に来るのがビジネスクラス。そこにも自分の座席はなし。搭乗口が飛行機のお腹の方にあったら、こんな感情は抱かない。エコノミーはきゅうきゅうに混雑。ビジネスとエコノミーの違いはよく知らないが、飛行機といえばこの窮屈さ。隣がいたらはずれ。いなければ当たり。そんなもんでしょ庶民は。
上空は曇り空。上昇時には少し揺れが気になる。北は冬型の気圧配置。低気圧が鎮座して待っている。窓の外は列島と夕日。エコノミーから眺めても贅沢な景色。これで十分。どこの窓から観ても同じ景色。流れてくる室内のアナウンス。最後は「春の到来が心待ちです」と桜色のライトでお見送り。小粋な季節の演出。機体は降下を開始。
16時04分。羽田で乗り換え。何かお腹に入れておこうかと悩む。あれこれ探してもめぼしいものは見つからず。どれも高く感じる。和を全面に押しだした中華料理店は、とても美味しそうな外観。慣れ親しんだ濃い醤油ラーメンが900円はちと高い。混ぜそばに至っては1,080円と、なんでより高くなるのかわからず。しらす丼やほぐしチャーシュー丼は、あまり食欲をそそらない。財布の紐は固いぞと思いながら、コンビニでしょうが焼き弁当と小さなロールケーキを購入。1,280円を払うが、外食と変わらない値段に驚き。弁当は底上げ。してやられた感がたっぷり。空港は経済学を勉強する場所。そんなことを思いながら、夕刻の時間は過ぎる。次のフライトには滑り込みでセーフ。
17時44分。上空からみた東京の夜景。息をのむほどの絶景。地上にある日本三大風景もそろそろ刷新が必要ではないかと思う。幾つもの街を空からみてきたけれど、東京には一種特別な感情を抱く。関東で生まれ育ったせい?首都だから?わからない。これが郷愁と言う奴だろうか。大都会が故郷になる時代でもある。
北国行きの機内は人もまばら。通路を隔てて向かい側には祖母と孫娘らしき2人。車内灯をつけて文庫をよむ娘と、タブレットをスワイプしてページをめくる祖母。変な二人組。十代半ばと思わしき孫娘の着ているネルシャツが北国の暮らしを想起させる。もうすぐ北の大地。嫌でも胸が躍る。
19時20分。窓の外には飛行機の大型エンジン。遠くには釧路の街が見える。漆黒のなかにあるオレンジの灯り。大自然のなかにつくられた町。そんな印象を持つ。到着する数分前から携帯の電波が入る。すぐに妻からのライン。送られてきたのは、チビが大量のカードを床に敷き詰めている写真と、教育テレビのダンス番組を真似して踊っている動画。一人気ままな時間はこれにて終了。現代の地球上で電波の届かない場所は貴重。空の上は、その数少ない場所。
19時39分。釧路空港に到着。西のはずれにある空港から市内へは車で約50分。到着すると空港職員に誘導されて、市内行きの最終バスのなかへ連行。一本後のバスで空港廻りを散策したかったけど、そんな自由は当然のようにない。空港の外は灯りもない真っ暗な闇。途中、「動物が出てきたら急ブレーキかける」と言って脅かす運転手。その言葉に期待を膨らませて、バスはアクセルをかける。
夜の釧路市内行きのバスの車窓からは、鮮やかな黄色のUDトラックが見える。車窓には平屋も多い。途中、よくわからない作業機械と、多少、効き馴染みのある「鳥取」という地名。以外と雪が少ない今年の釧路。少し走るとマクドナルドのドライブスルーが渋滞しているのを視認。街の中を彩るのは、浜寿司にダイソーにケンタッキー、見覚えのある景色にさほど心が躍らない。バスが走るのはずっと大通り。途中、動物はあらわれず。運転手の言葉に裏切られ、ほどなくして市内に到着。これが現代の紀行文。冒険もくそもない。
20時22分。釧路駅前で下車。宿泊するホテルはすぐ目の前。ベルトコンベアー式に辿り着いた北の大地の宿。宿は6階建てのビジネスホテル。明るく小綺麗なフロント。隣には朝食用のダイニングルーム。コーヒーは無料。釧路の地酒の試飲コーナーまである。ユニフォームに身を包んだ感じの良い受付。壁に貼られた近隣の飲み屋の案内に、釧路近郊のツアー。これと言って不満はない。普通のビジネスホテルにきた普通の客。これは現代日本のトラベラーズ・ノート。モノクロームな出で立ちでクールな夜の街に溶け込むのが理想的。今日は合格。回りと同じように振る舞うことが出来た。
21時00分。部屋はシングルベッドが置かれた小さなワンルーム。部屋の小さな薄型テレビをつけて、見慣れたニュース番組を二度、三度と探す。北は冬型の気圧配置。鎮座して待っていた低気圧は、道央に大雪を降らしている模様。札幌駅は除雪が間に合わず、明日の発着便は全て運休。どこか遠くのニュースにも聞こえる。テレビからは、冬季オリンピックの速報が流れる。至極、快適な部屋の中。ユニットバスの浴槽に栓をして、Save water, Save energyと書かれた線までお湯を入れる。暖かいお風呂。風呂から上がれば、ノートパソコンの中で夜遊びして、小さなカップヌードルと、個包装のチョコを食べて眠る。なんにも面白いことなんてない。
これが現代の紀行文。