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二度、呪われた女(前編)

 その古びた手帳は、私たちがこの春から所属することになった民族学教室の倉庫の片隅にひっそりと置いてありました。はじまりは、本当にただの偶然だったと、今もそんな風に思っています。

 私は当時、遊びたい盛りで、頭の中はお花畑のように陽気な学生でした。友人のカノンと一緒に、ラク単で有名な民族学教室の主催するゼミで三回生で入ったのも今思えば、至極、自然な流れだったのだと思います。ゼミの飲み会で威張り散らす太っちょ先輩も、民族楽器マニアをきどる髪が異様に薄い教授も、研究室に置かれた気味の悪いお土産の木彫りトーテムポールも、さしあたって、青春時代の私の興味をひくようなものではありませんでした。

 現地調査を研究方法とするのが民族学では一般的で、私が春から通うことになったその大学の民族学教室でも、夏季休暇になると、ほとんどのゼミ生たちが、散り散りばらばら各々の調査地へ出かけてしまってしまいました。
 そのような事情で、この教室では、そうした夏季休暇の前に、教授とゼミ生たちが集まって、授業で使用している教室や奇妙な民具の置かれた隣の倉庫の大掃除をするのが一種、慣習となっていたのです。

 その大掃除の当日、ほのかは、腹痛と嘘をついて、彼とのデートを優先していました。喋る相手のいない私は、終始、グレーの金属棚に置かれた論文資料を、ただなんとなく並べているふりをしているだけでしたが、もうそろそろ終わりという時間になって、掃除しているふりに飽きてきた私は、その棚の一番下にある横開きの小さな戸を暇つぶしがてら開けてみたのです。そうして私は、その奥にあった小さい段ボール箱をみつけました。その時なぜ、その段ボールの中身をみてしまったのかはあまりよく覚えていません。

 その小さな段ボールの中には、どこか遠く見知らぬ土地で収集されてきた文具らしき道具と、奇怪な文字で書かれた書籍、そして、幾つかの絵コンテが混ざるように置かれていました。そして、そうしたガラクタのような収集品に混じって不思議な魅力を放っていたのが、その古びた手帳でした。

『くしゅん』

 私は、空中を舞い散る埃(ほこり)を遮るために、片手で口を押さえたまま、段ボールのなかから、付属の細いゴムで開かないよう閉じられていたその手帳を取り出しました。そして、その細いゴムバンドをほどき、恐る恐る表紙をめくったのです。

 表紙のカバーを一枚めくると、最初のページには、綺麗なクリーム色の紙に、少し滲んだインク文字で、「グレイモス海岸で起きた奇妙な出来事」とだけ記されていました。

『、、、グレイモス?』

 聞き慣れない地名と、フィールド野帳にしては小説じみた題名に、私は少し訝(いかがわ)しく思いましたが、掃除が終わると私は好奇心にかられ、教授が帰るのを待って、研究室でひとりひっそりと、その手帳のページの中を少しだけ覗(のぞ)いてみることにしたのです。
 これが私の間違いの始まりでした。そして、この古びた手帳が、まさかこの先の私の人生を大きく変えることになろうとは、その時には思いもしなかったのです。


「グレイモス海岸で起きた奇妙な出来事」

1979年12月26日 聖夜の放火事件について
 
「緑生い茂る南国のグレイモス海岸のインディオの村落を訪れて、すでに四ヶ月が過ぎようとしています。熱帯地方の気候に慣れないまま、退屈な毎日がゆっくりと、でも確実に過ぎさっていくのを感じます。未だ確たる調査結果も得られずに、僕は一人、とても不安な日々を過ごしています。
 昨夜は、待ちに待った聖夜(クリスマス)にもかかわらず、この村の中ほどにある掘っ立て小屋が、真夜中に放火されるという悲惨な事件が起こりましたので、そのことだけは、一応、この手帳に残しておこうと思います。
 その掘っ立て小屋は、簡素な木造で、南国らしく屋根は椰子の葉で出来ていました。小屋は、村のある夫婦が建てた物で、小さな廂(ひさし)の付いた簡素な小屋でした。(記録 No. 419)」

1979年12月26日
燃やされた小屋

 「その燃やされた小屋は、村長の姪っ子のものでした。僕は、この村の村長の家の敷地に住まわせてもらっているので、その姪っ子とは面識がありました。彼女の年齢は33歳。気が強いタイプの女性で、自給自足がまだ残るこの熱帯の村では珍しく商売をして生計を立てている女性でした。
 彼女には二人の子供がいましたが、二人とも父親が違っており、昔の男とは別に、いま同居している夫がいました。
 子どもたちの父親が違うのは、この村ではさほど珍しいことではありませでした。この村では、男たちが、村の外から家に入ってきて婚姻関係を結ぶ、妻型居住婚が通例となっています。そうした中で男たちが、新しい家に馴染めず出て行きいってしまうことも多々起こっていました。
 その姪っ子夫婦も夫は村外出身で、貧しくもありましたが、夫婦は、自分らの畑でとれたキャッサバ芋やバナナ、漁師たちが海からとってくる魚や海亀の肉などを売買してなんとかやりくりしていました。
 この小屋を建てて以来、夫婦の商売は少し上向きになっているようでもありましたが、その夫婦の小さな掘っ建て小屋が、真夜中に突然、炎に包まれたのでした。(記録 No. 420)」

『、、、妻型居住婚。夫婦が結婚後に、夫が妻の側の居住地へと移り住む居住形態のことを指す、、、か』

1979年12月26日
祝祭日の狂気的行動について

 「少しだけ、この熱帯の村で、僕のような外部のものが感じるだろう聖夜の狂気的な行動についても触れて置かなければなりません。この村の祝祭とは、私たちが思うような「厳かな儀式」とはかけ離れたものであるからです。
 この村にはキリスト教の信仰が厚い人々が暮らしています。人口は千人弱の小さな村ですが、教会の集会所は6つもあります。毎週末になると、朝夕かかわらず南国の村に美しい賛美歌が響き渡ります。生誕祭の昼にも、そのような穏やかな祈りの時間が過ぎていました。
 しかし、夜になると村の様相は、一変しました。村人たちは、狂ったように強いラム酒を浴びるように飲み始めると、そこかしこで突如、奇声を発しはじめたのです。それが、徐々に花火や銃器でエスカレートしていきました。その様は、まるで旧約聖書に描かれた退廃の象徴、ソドムとゴモラの喧騒を思い起こさせてくれるようでもありました。
 こうした慣習があるので、小屋の放火も、ただただ不快でよくわからない悪戯(いたずら)のひとつの可能性も捨てきれないのですが、聖夜の特別な夜ですから、何か別の意味でもあるのではないのかという考えが、どうしても僕の頭から離れませんでした(記録 No. 421)」

1979年12月29日
漂着した溺死体

 「聖夜の放火事件と前後して、村では奇妙なことが起り始めていました。朝方なにやら騒がしいと思って目を覚ますと、村人たちがラジオから港町の桟橋で人が落ちて行方不明になっていると慌てて騒ぎたてていたのです。
 その桟橋のある港町は、村の木造船で四時間ほどいったところにある、このあたりの商業中心地です。港町の桟橋には、外国籍の大型貨船や大型漁船が幾艘も停泊しており、桟橋には、外国人の船乗りや、地元の屈曲な潜水士、娼婦、港の荷担ぎのゴロツキ連中に至るまで様々な人種や国籍の人々が、日々、行き交っています。この桟橋付近で昨夜、橋から人が転落した事件が起こりました。話を聞くと、転落したのは、この村の住人だと言うことなのです。
 ラジオによると、その男は当時、相当に酔いつぶれていたようで、そのまま千鳥足で桟橋を歩いている最中、誤って海へと転落し、そのまま行方がわからなくなっているというものでした。

 港町の桟橋は、大型船も停泊できるほどの大きさで、橋桁は、高さにすると四メートルほどはあります。桟橋の下は波も荒く、酔っ払って落ちなどすれば、よほどのことでもないと助からないという危険な場所です。村の老漁師などは、「港町から南の村の浜辺あたりで遺体が揚がる」と予測していましたが、翌日、実際にその通りに、ブヨブヨになった状態で、南の村の浜辺にて遺体がみつかった時は、発見の喜びよりも、予測が的中した驚きのほうが大きかったように思います。
 遺体発見の一報を聞いた村人たちは、深い悲しみに襲われているようでしたが、実に驚いたことに一部の村人たちが、この転落死した男性が、実は聖夜に放火されたあの姪っ子によって殺害された殺人事件だと囁(ささや)きはじめていたのです。

「きっと、あの女が桟橋の男を殺したに違いない、、、きっとそうだ、、、」

「いや、あの女は呪われている。だからあの女には近づいてはいけない、、、」

「俺はみたぞ、あの貧しい女と死んだ桟橋の男が、不埒(ふらち)な関係であったのを。俺は見たんだ、、、」

 一部の村の人々の口から、そのような心無い言葉が漏れ始めていました。あの聖夜の放火を端緒に、村の中では、不穏な空気が流れ始めていました(記録 No. 422)」         

つづく


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