恨みから赦しへ移れるのか、人だけでは移れない
2016年7月の記事。もう7年前か。あの頃は、シリアの事をずっと考えていた。
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私の子供。
イベントでの手拭いワークショップ。
幸せな子供の笑顔。
コロンビアの内戦の終了のための合意が、国民投票で否決された。まさかの否決。あの内戦を終わらせる事を選べない、憎しみの積み重ね。
イギリスの国民投票と同じく、このような結果になるとは、投票を提起した側は、思ってもいなかっただろう。国を二分し、不幸せにする国民投票。なんのためのリーダーか。
ただ、今日はその事はいい。国民投票の欺瞞に関しては、別のところで書いた。
今は、赦し、という事を考えたい。
親が殺された。子供が殺された。その相手を赦すのか。赦す事が出来るのか。
出来ない。出来るわけがない。なぜ、出来るのか?
主よ、教えてください。
シリアのアレッポの人々は、ダマスカスの人の事を赦せれるのでしょうか?コロンビアの人達は、今からでもFARCの人達を赦すのでしょうか?
書いていて気がついた。片方が、もう片方を赦す、ということではない。
主が、我々みんなを、赦す、という事なのだ。
小さなころ、済州にお墓参りをした時に、墓石に銃弾の跡があった。当時は日本軍だと思った。間違いだった。済州の人々の蜂起を徹底的に弾圧した韓国軍の銃弾だった。精神の気高さを持ちながら、赦すことなど、可能なのか!
内戦、同胞同士の戦い。
でも赦しがなければいけない。
主よ、イエスよ。赦したまえ。我々は愚かです。
子供の幸せな笑顔を、大切に思いながら、その笑顔を守り続けることの出来ない愚かな存在です。
我々だけでは、赦しあうことの出来ない存在です。
赦し、赦され、存在する道を導きください。
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