でも、洗礼の喜びを伝えたいという思いは空回りをしていた
(2022年東京基督教大学入学時の証の一部分)
喜びを伝えたという思いの空回り
洗礼を受けた喜び、それを人に伝えたい。
洗礼を受けた後の私の思いは、その一点でした。
イエス様を信じ、救われたという喜び。
洗礼を受けて一年弱の頃、子供が生まれました。
私は本当の意味で必要の無いものまで含め、何もかも失った。
でも、だからこそ妻がいてくれる。そして、イエス様を信じ、自分には一生を通じて縁の無いと思っていた子供まで生まれました。
「はじめに神は天と地を創造された。地は形なく、むなしく、闇が淵の面にあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった」
創世記第一章
この私にも、神は光を届けてくださった。
光が生まれる前、暁の生まれるところ、暁元と名付けました。
こんなに喜びに包まれていいのか。
とにかく、福音を伝えたい。
で、ここで私がやることは、やっぱり事業になってしまう。
私が当時、持っていた表参道のミシュラン星付きのフランス料理店(赤字だったけど)の名前を使って、代官山に聖書カフェを開きました。もともとライブハウスだった大きな空間に色々な形の聖書を並べて。
結婚式も少しは入ったのでしょうか。私の知り合いなどで、クリスチャンの集まりにも少しは使われました。でも、聖書が飾りでしかなく、単なるお洒落なカフェでした。
スタッフも聖書に関心はなく、チャプレンもいない。
家賃の値上げなどをきっかけに、このお店は私の手を離れました。
その後、東銀座で、また聖書を並べた小さなレストランをやりました。妻の繋がりのシンガポールのクリスチャン達が、アルファという学びをしており、その学びの場になれば、という思いもありました。一般的な色々な人たちに聖書を手に取ってもらう、という事が目的ではなく、自分達の勉強の場そして自分達の周囲の人たちに福音を伝えられれば、という目的でした。
でも、何も生まれない。確かに私は神を信じている。だけど、他の人に伝えれるだけのものが私の中に無い。喜びはある。聖書を開くことはできる。だけど、それ以上、話すことが出来ない。
結局、この時の私は、空回りをして失敗をしたのです。