
演技と驚き◇Wonder of Acting #4(Apr. /2020)
【はじめに】
演技が好きだ。映画、舞台、ドラマ、アニメ、古典芸能が好きだとりわけ演技が好きだ。もっと話したい知りたい。人がその人ではない誰かになって見せてくれる声と身体と仕草と表情が、どうしてこんなに心を捉えてはなさないのか、その秘密にいつまでも触れていたい。
そんなあなたのための、観客による<演技>をめぐる場所
第四号、何かをあなたの中に残せれば。
01.今月の演技をめぐる言葉
志村さんの言葉。最高にカッコいい。
— ガル憎《広島版》 (@garuzow_carp) March 30, 2020
──「やっぱり子供たちにバカだと思われているのはいい。お笑いをやってて、子供にまで『あれは芝居してるんだよ』なんて言われたらみっともない。バカだと思われてるってことは、そう『見える』ってことだから、演じてる者にとってはいちばん嬉しい誉め言葉だ」 pic.twitter.com/wEEukMRzRR
ドラマ『伝説のお母さん』を観て確信に至りましたが、片山友希は笑いを量産できちゃうタイプの役者ではないでしょうか。一度聞いたら忘れられない台詞回しと、不機嫌がコメディになる確かな演技メソッドは、近い将来、映像業界に伊藤沙莉との2強時代がやってくると予感させます。 pic.twitter.com/x4WoyGuGzM
— それもまた一興 (@top_hut) March 31, 2020
片山友希(Wikipedia) / 伊藤沙莉(Wikipedia)
昨晩の #にっぽんの芸能 をもう一度見る。「役者は生きている間に舞台に立たないと何の値打ちもない」と言う仁左衛門さん。どんなに映像技術が進歩しても生の舞台で観客を喜ばせるのが役者という矜持と、現在歌舞伎が上演できない状況に対する思いが、柔らかな笑顔の中に込められている気がしました😑
— ミナミ (@kabu_tatsu) April 4, 2020
『ジュディ 虹の彼方に』
— えりこ♡映画 (@elly_cinema) March 18, 2020
レネー・ゼルウィガー演じるジュディから片時も目を離せませんでした。
表情、仕草、そして歌声。彼女の生み出すもの全てが心を掴んで離さない。その強い魅力を余す事なく伝えてくれた作品でした。レネーのオスカー受賞は納得しかありませんでした。#ジュディ虹の彼方に pic.twitter.com/ZkfRdw7seW
喜劇役者のなかでは、ただバスター・キートンだけが自分を精密な機械のように活動させることで笑いを生んだ。
— 蓮實重彥bot (@shigehikohasumi) April 15, 2020
エウレカセブンのホランドなんかは大人の男の立場に未熟な青少年の自我が入り混じったキャラクターで、まさに藤原さんの声の調子がばっちりハマってたんだよなぁ…
— まぐれもの (@maGuremono) April 16, 2020
大林監督って俳優の演技力みたいなものに頼らない映画を作っていたラジよね。
— PsycheRadio (@marxindo) April 18, 2020
桜井日奈子さんの演技の何が好きかって、急に現実を持ち込んでくる、低くて少し早口かつ拗ねた声でぶつくさ言う演技。「何なんだよほんとに(小声)」みたいなアレです。あれは桜井日奈子さん独自の一芸だと思ってます。#桜井日奈子 pic.twitter.com/eNSC6rllcC
— シネマン(映画好き) (@cineman_0727) April 25, 2020
録画した暗殺教室見てたんだけど、二宮和也くんの演技が神で、「喜怒哀楽愛」全てが見れる。私は特別ジャニや嵐のファンとかではないけど、毎回ドラマ映画で見る二宮くんの演技に惹きつけられる。魅力的すぎてすごい。こんなに沢山の感情表現が出来るって素直に羨ましくなる。
— yu (@tomama0568) April 19, 2020
『37セカンズ』それくらい完璧を極めた演技なのだ。ユマの心理の動きがストレートに観客に伝わり、押しつけがましさの無い共感を誘う。「これって本当に彼女の自伝でもドキュメンタリーでもないんだよな?」と、見ている側がうろたえてしまうほどの自然さ。やはり奇跡と呼ぶ以外に無い。 pic.twitter.com/jIqwqlWH3r
— ぼのぼの (@masato009) February 8, 2020
バレエには幾つかのポジションがある。というよりバレエはポジションの芸術である。しかしそのポジションはよく誤解されるように外形的なものではなく、医学的研究に基づいた腱や筋肉の適切な働きによる骨のポジショニングのこと。だからバレエは、極めて高度な集中を要する、内在的芸術なのだと思う。
— Jo Kanamori / 金森穣 (@jokanamori) April 26, 2020
引用させていただいたみなさん、ありがとうございました。
02.今月の「Wonder of Act」(編集人の一押し)
『37セカンズ』スクリーンで観たかったのですが、私は一歩間に合わず、Netflixでの鑑賞となりました。監督、主演、助演のインタビューです。
”佳山明「今は、たくさんの人に映画を見て頂いてありがたいという想いです。今回の映画を通して、表現することの面白さを皆さんに教えていただいたので、もし機会をいただけたらありがたいなというのが今の思いです」”
ぜひ、俳優を続けて欲しい。切に思います。
03.【新連載】演技を散歩 第一回「フリと演技」 ~pulpoficcion
今月から演技について書く。といっても作り手、つまり演出家や俳優にとっての演技論ではない。観客が観た演技について書くのだ。あるべき演技についてではなく、今、すでに成立している演技を主題とするということだ。というものの、では演技が成立しているというのは実際のところ、どういうことなのか。
『ラストレター』。広瀬すずと森七菜のまばゆい姿にアてられて蒸発死しそうになる映画。関係ないけれど、七菜をしばらく「ななな」さんと読んでいた、かわいい語感だなあ、と。それはおくとして、ここで書きたいのは松たか子だ。
プロットに抵触しないようぼんやり書くが、松たか子は劇中、別人のフリをする。いや、むしろ、のべつまくなしフリをしている。そのトーンが一段と高くなるシーンがある。同窓会を抜け出した帰路のバス停、かつて憧れていた男性(福山雅治)と久しぶりに声を交わすシーンだ。詳細は省くが、この時、松たか子は広瀬すずの声(ボイス)によせてくる。もう少し正確に言うと、広瀬すずが歳を重ねたら確かにこういう声色で、こういう風にしゃべるのだろうと思わせるしゃべり方をするのだ。はっとした。ぞくっとした。このとき松たか子の中で何が起こっているのか。
わたしたちも日常で何かのフリをすることがある。そのときフリすることを意図している自分と、フリしている自分は、身体の中で共存しているのだろうか。そうだとすると松たか子の中には、フリを意図している役の人物と、フリをしている役の人物と、さらにその奥に役の人物を演技している松たか子がいるということだろうか。(図1)
そんなに複雑なことがこの演技の中に、はらまれているのだろうか。もちろん、それくらいの複雑な操作ができてこそのプロフェッショナルなのかもしれない。けれど、もしかすると、くだんのシーンは松たか子が単に広瀬すずの声色をマネしただけなのかもしれないではないか。
ふりだしに戻って考えると、わたしたちが日常でフリをしているとき、その実態は、フロントにベタにフリをする自分がいて、時々そのフリを反省的に振り返る自分がいる。という推移をたどるのではないか。演じることもそのように、役の人物の後ろに俳優が立って、ときどき眺めているようなものなのかもしれない。(図2)
松たか子が広瀬すずのボイスで語る。
その時成立しているのは、役の人物が内部で割れて、さらにそれを操作する俳優がいるという現象なのか、それとも意識される/する/される/するという層状のモデルなのか。あるいは全く別の何かなのか。
さて、わたしは観客である。仕草、表情、声、そうした俳優・演者のおもてに現れたものを受け止め、演技を鑑賞するものである。観客が俳優の内面に立ち入って、そこで何が起きているのかを考えるのは、なにかどことなく僭越であるようにも思える。
いや、性急に過ぎた。それに正確な書き方ではない。
すぐれた演技に触れると、わたしたちは人物の心情を、自分なりの受け止め方で構成し、感応する。そういう意味で演技は人の内面をあてにした表現だ。人の内面をあてにしない表現があるのかというとそれはそれで語るべきテーマだが、とりわけ演技は感情を表現し、また直接感情に訴えかける表現だ。演技を語るのに内面という言葉を粗雑に取り扱ってはいけない。
だから言い換える。わたしが問いたいのは、わたしの中に何らかの感情を生み出した俳優の姿かたち声(感情表現)を成り立たせるひみつ(彼女彼自身のからだが持つ演技論)に「立ち入る」ことの是非である。そんなことが一観客に許されるのだろうか?
これに対して、わたしは次のように主張したいのだ。
「観客は演技をより深く楽しむため、俳優・演者の内面、その演技論に立ち入って構わないし、それには何らの責任もともなわない」
つまりこういうことだ。松たか子が、まるで広瀬すずが長じて発するような声色で話し出した。その時の「うわっ、こんなこと仕掛けてくるんだ。すげーよ松たか子」と鳥肌がたつほどの衝撃を記憶し、折にふれて反芻し、感動しなおすため、わたしは「フリをする演技とは何なのだ?」という問いを問う。答えを見つけるためではない。ただその問いの回りを歩き回るために。そのさまよいが、松たか子の、あの演技をより深く、強く記憶することになるから。
ほんとうは松たか子の姿にただ驚き、うっとりしていれば充分なのかもしれない(だんだん「松たかこ」がゲシュタルト崩壊してきた)。けれど、残念な(同時に幸せな)ことに<わたし>はそのようにして<演技>を楽しんでいる。多分これからもそうやって楽しむのだ。
この連載では、ときに勝手に俳優の内面を想像し、ときに答えのない問いを考えたりしながら、わたしが感銘をうけたあれやこれやの演技を、より光り輝かせるために歩き回りたい。初回は自らの立ち位置をはっきりするため、やや肩に力が入った。次回(隔月予定)はもう少し、ぶらぶらと行きます。
そして、どこかにいるかもしれない同好の士と出会えますよう。
04.こういう基準で言葉を選んでいます
対象は、舞台、アニメーション、映画、テレビドラマ、そのほか、人が<演技>を感じるもの全てについてです。肯定性・批評性・記録性・分析性を感じる。鮮やかな気持ちが伝わってくる。そんな言葉を探しています。
対象媒体は現在Twitterばかりですが、ほっておくと流れて消えてしまう言葉をとどめておきたいというのが本心です。チラシの一節とか、看板の一言とか。逆に言うとブログなどでまとめて書いてあるものは、「今月の「Wonder of Act」」で紹介することはあっても「今月の演技をめぐる言葉」には引用しないというのが大まかな方針です。
私が観ている/観ていない、共感できる/共感できないは判断基準にしません。私が観たこともない演技について、100人のうち99人(私も含む)が賛成できないような言葉が載っているかも知れません。それも含めて<驚き>、という理解をしていただけるとありがたいです。
同じ対象(作品・俳優)、同じ言葉の出どころ(書き手)の重複はあまり気にしません。基本、その月に見つけた言葉を集めようと考えていますので、かぶることを気にかけすぎるのは変だろうという判断です。
是非、みなさんが感じた<演技の驚き>をお寄せ下さい。
05.予告、連絡先とその他
第5号は5月28日発行予定です。新連載を開始する予定です。
本誌への連絡はコメント欄のほか、以下もお使いください。
Twitter: @m_homma 、@WonderofA (このマガジン専用)
Mail: pulpoficcion.jp@gmail.com
ツイッターのDMは開放しています。
【引用の許諾について】
ツイートの事前使用許諾はいただいておりません。<演技と驚き>を公開後、それぞれのツイートに「引用したが問題あれば連絡ください」旨リプライしています(画像についても同様です)。
この方式に違和感のある方もいらっしゃるかと思います。そのあたりも忌憚のないご意見いただけますと幸いです。
マガジン、および、記事タイトルの画像は、乏しい私の画像フォルダから選んでいますが、かっこいい画像(撮影・作成問わず)をご提供いただけますとありがたいです。公表して良いお名前(アカウント名)もお知らせいただけますと、明記いたします(それくらいしかお礼できませんが)。
最後に、それほどいらっしゃらないとは思いますが、編集者の経歴について気になる方は第1号の末尾をご参照下さい。→
それから最近はこんなこともしてました。
06.編集後記
260、81、144
これは<演技と驚き>の2020年4月29日現在のビュー数です。第一号、第二号、第三号の順です(二号少ねえな)。この数をどう評価すべきか私にはわかりませんが、感覚的には1000くらい行くマガジンになると良いなあと考えています。それくらいになったら何か集まってできるイベントを企画したい。それくらいになるころには、今世界を覆っている災禍(といやな空気)も薄れているでしょう。というかそんな時は来ないのかも知れませんが(一応ダブルミーニング)。ともあれ「おうち」でじっくり演技について思い巡らせたい。今、たった今、そう考えている誰かにこのマガジンが届きますよう。
あ、あとついさっきまでずっと「にのみやかずや」と呼んでました。ニホンゴムズカシ
それでは来月号もよろしくお願いします。