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演技と驚き◇Wonder of Acting #16

タイトル画像:ペトロフ・ヴォトキン「聖母」

ひろげた両のてのひらが空間を、ひらく。迎え入れるのでもない。はいりこむのでもない。聖母はそこにできた空間そのものをみつめている。みつめている彼女を見つめていると、不意にてのひらが揺れはじめる 
[演技を記憶するためのマガジン Apr. 2021]

01.今月の演技をめぐる言葉

あさりらいす EW ズドン ໒꒱ラーヤ( @asaririce ) > original Tweet

巻町操 こと土屋太鳳さん
撮影中ゾーンに入ったことを
ご報告いたします
ゾーン確認は赤司征十郎さんに続き
4人目です

引用させていただいた皆様、ありがとうございました †

02.雲水さんの今様歌舞伎旅(ときどき寄り道)

其五:日本発のミュージカル映画の魅力 ~箕山 雲水

期せずして千穐楽となってしまった四月歌舞伎座のロビーでこれを書いている。1週間前は、まさかまた緊急事態宣言で劇場が閉まるなど少しも思わず同じロビーにいたのだけれど。あの日は、『小鍛冶』と『勧進帳』を観るために歌舞伎座にいた。なにしろ、あの映画『すくってごらん』で主演をしていた尾上松也丈が『勧進帳』の富樫をやるというのだ。見逃すわけにはいかない。

さすがに『三人吉三』や『風の谷のナウシカ』をあれだけ観ていて松也丈のことを知らなかった、というと嘘になる。近所の劇場で自主公演をやっていた頃から認識していたし、ミュージカルの文脈では『エリザベート』のルキーニの人、と記憶もしていた。それなのにどういう芝居をする人なのか知らないでここまできてしまったのは、今思えば、芝居がうまいからだったのだろう。うまくて灰汁もないからひっかかることがなかったのだ。

その彼が主演した『すくってごらん』はちょっと今まで見たことがないような映画だった。どこかに昭和の和製ミュージカル映画の薫りも漂わせながら、それでいて新しい。これはいったい何のジャンルなのだろう?
ミュージカル?いやこれはむしろ、映画全体が極上の交響曲。

音楽はもちろん、俳優も音符のひとつのようにキラキラと映画の中に存在していた。ピアノ、歌、ダンス、芝居、画面に現れる文字、それぞれが際立った個性の音を奏でてこれが重なりあう。いつのまにかその音楽の中に飲み込まれて大きな音楽の川を流れているような不思議な感覚で、気づけば主人公の心に自分の心が重なって涙が止まらなくなっていた。こんな体験はいままで映画館でも劇場でもしたことがない。そして、その作品の主旋律となっているのが松也丈演じる香芝誠である。

主人公の香芝誠は、エリート銀行員。ただし、頭に“元”がつく。エリートのわりに至極人間的な失敗をして田舎に左遷されてきたところが物語のはじまりだ。自分はエリートで、数字のことを考えていれば間違いない、心の中で何を考えているかなど感じさせることなく相手とやりとりができる…。そんな心の中の呟きが、色々なタイプの歌とテキストで綴られる。

そう、テキスト。表には出さない様々なことを、Twitterで呟くあの感じだ。自分の評価が下がっては困るから、ネガティブな発言は匿名の裏アカウントでだけ。表立っては当たり障りがないことを言って真っ当な人間をやり切っていたはずなのに、いつのまにか周りの人に自分の裏アカウントが知られている。まさに緊急事態!

「裏アカウントがばれた!」。心の中でつぶやいていたはずのネガティブ発言がどんどん外に出てしまう。ところが「嫌な自分」を知ってなお、周りの人たちは静かに彼を受け入れるから面白い。お前は嫌なやつだ、なんて言わないのだ。いけないことを考えてしまう自分の存在をまず、受け入れて、作ったエリート顔の香芝がどんどんほぐれていく。この変化が松也丈は見事だった。細切れで撮っているはずなのに、途中まで顔全体に力が入っていたものが、ある場面ですーっと頬も口も下がっていき、いつのまにか目が輝いてくる。顔芸なんて書かれていたけれど、それどころではない。内面から完全に変えなければ、あんな変化は見せられない。ライバルとなる役を演じた柿澤勇人さんも、こちらは一場面だけ急に瞳にとてつもない闇を帯びる逆パターンで、こちらも見事。自分らしく生きるとは、自由とは何か。今、この時代だからこそよけいに身をつまされるテーマで、なぜ金魚すくいを見ながら泣いているのだろうと思いながら泣いた。さほど期待もせず、たいして情報も入れずに観に行った映画に限って、こういう激しいショックを受けることになるから油断も隙もありゃしない。

それにしても歌舞伎俳優は、知れば知るほど幅が広いし、これだけ型、型と言われるのに驚くほど多種多様の芝居をする。400年の歴史は伝統やクラシックの枠におさまるためにあるのではないようで。あれだけ美味しそうにおはぎを食べられるのもまた才能。おかげで美味しいおはぎに出会いたくてたまらないのだけれど、この事態ではますます時間がかかりそうで…困ったなぁ。

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03.今月の「Wonder of Act」読者投稿 
左岸狂言『鱒釣』初公演 ~岡本一平

theater company左岸族は、本間盛行氏(制作部)と才木典泰氏(俳優部)が2020年秋に結成した演劇集団で、2人が淀川左岸で出会ったことから命名された。2021年4月11日、ぼくは左岸族の初公演を観るために、横浜から大阪府門真市のLive Ps CAFE(小さく細長い小屋だけど、ここも淀川左岸)に出かけた。観客は十数名で満員。左岸族お目当ての3人を除けば、他の観客は同じイベントに登場する演者である。

初演は「左岸狂言『鱒釣』」。本間氏がスペインの昔話を新作狂言に翻案した。物語は、川漁師の主人が鱒を9匹釣り上げ、お寺の住持(お坊さん)も招き、女房と3人で食べようと思いついたところから始まる。本間氏が主人と住持の二役、才木氏が女房を演じた。今回は舞台の制約から2人は立ち位置からほとんど動けず、しかも板付で登場。さらにコロナ禍下(いわゆる第4波の始まり頃)ということでマスクをしたままでの演技。狂言としても演劇としても、しばりは多い。そんな拘束にもかかわらず、なんともおかしげな芝居が繰り広げられた。

二人の魅力は補完性にある。冒頭のシーンでは、主人(本間氏)は、女房(才木氏)を呼び出して釣果を報告する。その際、本間氏は古典劇特有の誇張されたセリフ回しと動きで、「狂言」の世界を生み出す。本間氏には型に対する信頼があり、型は個性を消さないことを知悉している。対して才木氏は、現代人が古典劇を「退屈」に感じてしまうことに敏感であり、型を破壊することも恐れない。本間氏の主人が新作狂言世界の「耕作者」であるなら、才木氏の女房は「種を蒔く人」とでもいえようか。二人の役者の絶妙な塩梅で『鱒釣』は仕上げられた。

見どころの一つは、女房を演じる才木氏の約5分にも及ぶ長台詞の一人芝居(マスクをつけたまま)。全体の約半分にも及ぶ。住持を呼びに出た主人に命じられ、女房は鱒を料理し始めるが、ここから才木氏は踊り出す。才木氏にはフラがあり、立ち姿だけで笑いを誘う(じっとしていられない子供のよう)。台所で料理する仕草が小気味よく、自然の恵み、鱒への喜びが徐々に全身にみなぎり、やがて爆発してゆく。まるでマッドサイエンティストの実験工房を見ているようであり、ぼくらが失った収穫の宴を見ているようでもある(おそらく宴の準備から宴は始まっているのだろう)。食べる喜びは、すでに作る段階に前倒しされ、鱒に対する女房の前のめりな気持ちが、料理の仕草に過剰に溢れ出してゆく。味見のつもりが食欲は止まず、食欲と理性がせめぎ合う。欲と罪。鱒を喰い、ふと我に帰り、おのれの罪を告白する女房の様子は、可愛らしくもおかしい。『ジョジョの奇妙な冒険』のポルナレフを彷彿とさせる「告白」の決めポーズ。味見の罪は住持に転嫁される。罪を悔いているのか、開き直っているのか、だんだん誰にもわからなくなる。つまみ食いした子供がこの「告白」=「言い訳」を真似れば、親から一発食らうこと必死。そこがまたいい。才木氏によって演じられる祝祭性は、生きる喜びから生まれる稚気そのものだ。

本間氏は声がいい。第一声で驚かされた。直前の演目は、落語家の小噺だったが、本間氏の第一声は観客のスイッチを演劇へと一瞬に切り替えた。主人役の本間氏は、耳に心地よいセリフ回し(と動き)で、狂言の世界を作り出し観客を誘う。住持役の本間氏は、陽気で厳粛な調子で「御詠歌(ごえいか)」を歌い、その世界の深層をチラッと見せる(ここがもう一つの見どころ)。生きることの厳しさと楽しみ、その分かちがたい二層を歌声にのせる。本間氏の声/歌声を聴くと、今後も彼に主人と住持の二役を演じて欲しくなる。

「御詠歌」の歌詞は「思い出してまた忘れましょう」で終わる。突然思い出し、再び忘れることによって解決した気になる何か。誰もが抱えているそんな存在を思い起こさせてくれる言葉。強いメッセージではない。仕事終わりにストロングゼロを摂取しながらも、現実にはゼロにはできない明滅する何かを抱えながら、明日も仕事する時代。そんな生活を形にする言葉だ。

「御詠歌」のシーンでは、責任を転嫁していた才木氏が神妙な面持ちで鐘を鳴らし唱和する。才木氏が動くと舞台が祝祭めいてくる。本間氏の一人二役の追っかけっこを、後ろでなぞる才木氏の動きは、映像にやや別種の字幕をつけたようなズレを感じさせ、不思議なおかしみを作り出していた。

「左岸」で振舞われた「ストロングゼロ」に、ぼくもぐでんぐでんに酔いました。

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04.隔月連載 演技を散歩 ~ pulpo ficcion

第七回「演技の生まれるところ」

※以下の文章は映画
『二重のまち/交代地のうたを編む』
の構造に触れています。
無情報でこの作品に触れたい方は、
映画をご覧になってからお読みください※

演技は、どこからうまれるのだろうと考えることがある。赤ん坊をあやす大人の、目の前にいるかそけきものへの最大のおもいやりとおもてなし。誰かに、ここにはいない誰かのことを伝えるときの、熱のこもった話しぶり身振り手振りをまねたおしゃべり。

ただ、それは確かに演技にちかくはあっても、何か、足りないものがあるようにも思っていた。フリをすることは演技の一部だが、演技にはフリだけではない何かがあると感じていた。

言ってしまえば、それは観客の存在だ。けれども、観客がいればそこに演技が生まれるという簡単なことではない。観客を前に何かを伝えるときに、その片方に、フリ(身振り、手振り、口ぶり)があったとして、もう片方に何かが、確かに、ある。その何かがうまく言い当てられなかった。

旅人がまちの人に話を聞くことで、これまで被災体験者だけが負っていた"語る"という役割の一端を彼らに引き渡すこともできるかもしれない。互いにしんどさはあるだろうけれど、語らずにはおれない体験を手渡しあおうとする場はきっと、どこかあたたかいものであるはずだ。ずっとずっと昔からつづく民話の語り継ぎの過程にも、旅人という存在は欠かせないものだったと聞いたこともある。津波から七年、八年が経つ陸前高田で、<継承のはじまりの場>を作ろう。
瀬尾夏美『二重のまち/交代地のうたを編む』パンフレットより

東日本大震災当時、小学生や中学生や高校生で、新潟、東京、群馬と被災地とは離れた場所で震災を迎えた4人の若者が、陸前高田を訪れる。

嵩上げ工事によって、かつての町の上に新しい町が作られ、工事風景とともに暮らす人々を、訪ねる。

手ぶらではない。作家瀬尾夏美の手による『二重のまち』という掌編、春・夏・秋・冬それぞれのパートを携えて、陸前高田の人に会いに行く。会って、話を聞く。聞いたこと、聞いて感じたことを、4人で話し合う。『二重のまち』を読む。カメラやマイクに向かって、感じていることを話す。

そして、最後に、夕方の広場に皆さんを招き、朗読会をする。

『二重のまち/交代地のうたを編む』は、この過程を記録したものだ。膨大な記録の中から選ばれ、編集された映像は、ほとんど旅人だけにフォーカスしている。

●彼ら彼女らが何を思ってここに来たのか
●陸前高田の人の話を聞いて、どう感じたのか
●お互いの会話
●そして、『二重のまち』の朗読

映画はしずかに出来事を並べる。旅人たちの葛藤を大げさに見せることもない。人と人との出会いをことさらに強調することもない。できるだけ、そこであったことをそこであったまま伝えたいという意思を持ったカメラ、録音、編集が記録したもの、それは<はじまりの演技>とでもいうべきものだった。

劇中、何度か「想像(力)」という言葉が現れる。

「想像力が大切だ」という紋切り型ではない。安易な「想像」ができないこと、「想像」することに対する注意深さ、怯え、自分が分りようもないことを受け取ることの倫理として、戒めとしてこの言葉が語られるのだ。

町の人たちの記憶をほんの少し手渡されて、その手渡された感覚をお互いに言葉にして、分かち合って、『二重のまち』という作品を朗読する。それはとてもシンプルな構造の散文だ。震災から20年後、嵩上げ工事によってつくられた上の町から、下の町を想う、下の町を訪ねる。そういうお話。シンプルだからこそ、そこに様々な思いが込めえるだろう。やろうと思えば、一色の声で塗りつぶすこともできるだろう。

だが、旅人たちは、ごくごくプレーンにこの物語を朗読する。

小森+瀬尾が、あえて「当事者」とのあいだにいくつもの回路を挟んでいることは明らかである。『二重のまち』という物語=フィクションと、「旅人」という媒介者=報告者=朗読者の起用と関与によって、ある意味では「当事者性」から遠ざかっているとさえ映るかもしれない。だがしかし、このような特異な方法でしか探求しえないものがあるのではないか。
佐々木敦『二重のまち/交代地のうたを編む』パンフレットより

この特異な場所に「演技」は生まれるのだ。様々な声を聴き、それを究極的には理解できないと知りつつ記憶した体が、観客の前で、フィクションを語る。その時、再現から始まって、再現だけによらない、この連載の何号か前の言葉を使えば「神話性」を帯びた人の身体操作が誕生する。

それを私たちは、演技と呼ぶ。

観客を前に、観客のすべてを共感させることの不可能性を前に、ちょっとした作り事、を手にして現れる。その時、演技は驚きともに、そこに生まれる。

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05.こういう基準で言葉を選んでいます

舞台、アニメーション、映画、ドラマ、etc。人が<演技>を感じるもの全てを対象としています。編集が観ている/観ていない、共感できる/共感できないは問いません。熱い・鋭い・意義深い・好きすぎる、そんなチャームのある言葉を探しています。ほとんどがツイッターからの選択ですが、チラシやミニマガジン、ほっておくと消えてしまいそうな言葉をとどめたいと考えています。皆さんからのご紹介もお待ちしています。
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引用中にスチルが載っている場合、直接引かず、文章のみ引用、リンクを張っています。画像は一枚一枚がただちに作品となるため「都度、引用元、作者を明記する」のが法の求める運用ですが、SNSについては現状そこまでの厳格さは求められてはいない(求めるべきとも思わない)。一方、このマガジンのように一カ所にまとめるのは、個々のSNSとは表現レベルが異なるだろうという判断です。

06.執筆者紹介

箕山 雲水
兵庫県出身。物心ついた頃には芝居と音楽がそばにあり、『お話でてこい』や『まんが日本昔ばなし』に親しんで育った結果、きっかけというきっかけもなくミュージカルや歌舞伎、落語を中心に芝居好きに育つ。これまで各年代で特に衝撃を受けたのは『黄金のかもしか』、十七世中村勘三郎十三回忌追善公演の『二人猩々』、『21C:マドモアゼルモーツァルト』

岡本一平 (投稿)
この度、光栄にも左岸狂言『鱒釣』の考証をさせていただきました。左岸族の初舞台を拝見致しましたので、記錄に残したく投稿いたしました。

pulpo ficción
1965年生男性会社員。観客部感想班(特定の団体ではなく、作品に触れ、何かを感じた人の合言葉になれば)。2021年シアターカンパニー「左岸族」を友人と二人で結成、初夏の旗揚げ公演模索中

07.編集後記

ほんと、真面目に、一緒に言葉探す人募集中です。これねえ、一人くらいいるんじゃないかって思うんだけど。ツイッターをはじめとする各種短文に、何らかの演技に触れた驚きを鮮やかに切り取った一節があったとき、わ、これ、自分だけ見て消えていくのか、もったいない!とかなりませんか。なる方、乞連絡!

ということで、投稿嬉しかったです。岡本さん、本当にありがとうございました。自分のカンパニーについての文章なので、ちょっと忸怩たるものはあるのですが、でもしかし、この狂言がこんな風に届いてくれていたのであれば、制作冥利に尽きます。(はい。最初の一声だけは気をつけていました。笑)

舞台が中止となり、映画館がクローズし、辛い初夏はじまり(今日はものすごい行楽日和です)となりましたが、こういう時こそ、見逃していた作品を探したり、過去に出会った驚きの演技を振り返ってまいりましょう。そのうち「私のオールタイム演技」、なんて企画が成立するぐらい読者をひろげたいものです。

いや、俺、めっちゃ王道やってるつもりやねんですけどね。ほんと。

愚痴はともあれ、17号は5/30(日)発行予定、生き抜いて迎えましょう!

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