日和見聖書
旧約聖書によると、神は、その時々によって人の寿命を変えてきました。つまり、人は罪によって無限の命が有限になったわけではありません。アダムとイブが知識の木の実を食べたので、神は「もう自立してやっていけるな」と考えてエデンから追放しました。罪とは神から遠ざかった状態です。
神はアダムとイブが知識の木の実を食べるかもしれないと、はじめから想定していました。従って、原罪など無い。すべて神の掌上での出来事なのです。罪は遺伝しません。生まれてくる赤ちゃんは初めから罪を負っていません。ただ生まれて呼吸したとたん罪を犯したことになります。そして
成長するにしたがって神から託された創造物の管理をしていく過程で罪を犯します。人を傷つける言葉を発したり、生態系を破壊する行為、人殺し、などなど。罪は負債です。負債はいつか解消しなければなりません。方法は1つだけ。神に付き従う様にすることです。和解です。そのために
旧約時代の人は、年に一度祭壇にいけにえを捧げました。和解が成立すると、一時的に罪が消えます。しかし生きていくうちに再び人は罪を犯してしまいます。律法は、神が考えた人が罪を犯さないようにする手段でしたが、守ることが簡単でなく、やはり法を犯し、そのための祭壇のいけにえ
により1年間の罪に対する神との和解をし続けなければなりません。この繰り返しから抜け出すために、神はインマニュエル(イエス)を降誕させました。イエスは生まれてすぐ罪を犯さなかったのは神から離れることがなかったからです。父と子は一体。そして十字架にイエスがかかったのは
人と神、罪と贖い、このために新しいシステムをつくるためです。1年間のみ有効であった動物のいけにえから、1度だけの十字架の死、埋葬、復活、昇天を人に見せ、聖書から学べば神と和解できるシステムです。依然として人は無意識、あるいは意識して罪を作ってしまいますが、その都度
イエスが葬られる必要はありません。人は知識に木の実をたべているので、あの残酷でむごたらしいイエスの様を、罪を犯すたびに思い出して回心したら神との和解は成立するのです。人は死ぬ直前までに神と和解できていれば救われます。セカンドチャンスはありません。死とは、命の書に
名前が記載されるかどうかの重要な分岐点です。聖書にはイエスは3日目に復活し、昇天したとあります。そのときイエスは人と再臨の約束をしました。さて文明社会はどんどん悪い方向に向かっていき、ソドムとゴモラの様にじわじわとなっていきます。この結末が艱難期。艱難期は7年と
されていますが、主の一日は千年、千年は一日。いつからか定かでないけど徐々に艱難が増えていきました。しかも人がイエスのことを思い出して回心しない人たちが増え続けため、終りのときにイエスは再臨し、第一の復活をとげたひとと、そのときまだ生きていた人が等しく新しくされ、
携挙します。携挙と昇天は目的地が違います。昇天は地から第三の天に、携挙は地から空中。さて携挙した人と再臨した人は空中でランデブーします。そしてハルマゲドンです。悪魔は敗退し、狭い場所に押し込められて千年待ち。イエス軍は地上に降り、千年間平和が訪れます。そして再び
悪魔が這い出してきて千年王国をつぶそうとしますが、キリストはゲヘナに悪魔と悪魔的なもの、神から離れたまま埋められているもの、またハデス自体も全てゲヘナに投げ込みます。再び地上に舞い降りてきて最後の審判が行われます。
命の書に名前のないものはゲヘナ行き、あるものは、新天新地を創造され、新しいエルサレム(新しい教会)に招かれます。ここで新しいエルサレムの門から入れない人もいますが、入れた者は生命の木の実を食べ、神に近いものとなり永遠に時が過ぎていきます。
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