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止まない雨と競争本能

なぜ人は互いに争い傷つけあうのか。
時に競争心は個人の素晴らしい成長を促すことがあるが、その反面他者を踏みつけ利用するというゲームルール最低限の公平性から大きく外れた意思すらも簡単に作り出す。
ドーピングがルール違反でなければ、やる人は増えるかもしれない。
だってルールに反してないから。
同調圧力と公平性に謳われた日々の生活だが、生まれつきの格差があるのもまた事実だ。
差別化できないと勝てない。
勝てないと子孫を未来に遺伝子を残せない。
遺伝子を残せないと生物のある種の目的である繁殖ができない。
繁殖ができなかったら、自分が天寿を全うすれば血縁はそこでストップ。
まあ、こんな考え自体が古いのかもしれないのだが。
みんなが共に競い合いお互いに高みを目指していけば、その競争に比例して住んでいる地域やコミュニティも発展していく。
地域やコミュニティが発展すれば少なくとも自分らの暮らしはより良い物になる。
気に入った服を着れて。
美味しいごはんを食べれて。
豪華で広い良い場所に住める。
そしたらもっと楽しい暮らしを、時間を過ごせるようになるんだと。
衣食住に限らず人は色んなものを賭けて掲げて戦うし、動物も戦う。
肉食動物の鋭い牙や爪、草食動物の角に霊長類の強い力。
深海魚なんかは深海で目がいらないからといって目を退化(もはや進化の域である)させた猛者もいる。
それら能力は天敵から身を守ったり、他の個体に勝ってナワバリを獲得したりするのにも用いられるのだ。
そういう残酷な部分はホモサピエンスである人間にも備わっているし、今も世界のどこかで平然と行われている。
テレビを点けたら無難にやっているニュースでも、そうゆう話もキャスターは原稿を読んでいるじゃないか。
僕たち一人一人が特別でかけがえのないオンリーワンでも、ナンバーワンを目指して競争競争。常に競争。
自分の利益のためには、目的のためには他の誰かを押し退けて踏み躙っても仕方ない痛くないという、そんな一種の君主論的な主義手段を選ばないマキャベリストだって平気でいるのだ。
ピラミッドの下層にいる弱いモノを踏み台にして、搾取して奪い取って。
そうやって戦いの火花を散らしやがて強者だけが繁栄する弱肉強食の世界が訪れる。一応極論ではあるが。
今の世界も普通にそうかもしれない。
この国だって憲法で平等こそ謳われているものの、その富や資本は別に平等ではないのだ。
みんなが真に平等に暮らせる社会は、今のところあまり成功した例が少なすぎるのである。
今日も、明日も、明後日も。
どんな時も生きているだけで世界のどこかで誰かと誰かは戦っているのだ。
競争しているのだ。
遠い過去から先の未来まで。
きっと僕らを乗せる地球船宇宙号の燃料タンク残量が続く限り。
別に、競争自体が悪い物ではないと思いたい。
オリンピックのスポーツ選手、あれだって十分立派な競争だけれど、世界中の人々が応援して熱狂して楽しめる。
コンセプトは平和の祭典だ。
あ、でもあれだわ。
でも彼ら一流選手を育てて活躍させるのに一体どれ程の競争があって犠牲が伴われたのだろうか。
一流になりたくても様々な要素でなれなくて涙を流した者たちが、輝かしい成功の影でどれほど無惨に積まれているのだろうか。
オリンピックをゲラゲラ笑って楽しんでいては気づかない競争の芽が、またこんなところにもあった。
なんだか、人間がこうして生きているだけで競争はどこにでも発生するのだから仕方ないことなのかもしれない。
オムツはムーニーかパンパースか。
肩書きは幼稚園卒か保育園卒か。
そんな学歴厨からしてみればミクロな世界でも、虫眼鏡を使ってみれば普通に競争はある。
生き方が多様化した社会でも、それでも普通にこういうことはあるのだ。
完全に平等な社会は、みんながアンドロイドみたいに同じ性能で同じ機能をして個なんて取っ払っていたら可能だとして。
遺伝子の螺旋に一生を支配される生物であるが故に生まれつきの差が既にある僕らには難しすぎるのではないか。
どれだけ努力しても褒められず、無限の才能があってもそれが活かされることはない。
この世は常に諸行無常。
勝者と敗者に分けられようが、止められやしない時代のうねりに乗っていくことは確かだ。
今日の競争を制しても明日の競争がやってくる。
明日の競争が終わったら次は明後日になるだけだ。
終わらない競争本能のスパイラルと、どこまでも続いていく戦いの螺旋。
ぼうっとしているだけだと簡単に引き摺り落とされるから、簡単に脅かされちゃうから。
人生って本当に難しい。
疲れたあなたも今日はgoodnight。
寝れば少しはストレスも取れる筈。
止まない雨と疲労困憊が蔓延る過酷な競争社会だからこそ。

せめて、より良い一日をあなたに。

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