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努力信仰のぐらつき

「努力だ努力だ努力だ!」「努力してない奴は喝!」「成功してない奴は努力が足りなかったからだ、努力は必ず報われる!」「だからお前は社会のゴミなんだよ!」
こういう過激なことを声高に言う人がいるらしいし、実際僕も類似した特徴を持つ人にまあまあ遭遇した経験がある。
でも遭遇してしまったその人は僕とは違って、割かれる教育リソースが裕福な、いわば高学歴を手にするに十分な資本を持つ家庭の生まれだった。
僕とは全然違って、環境的に生まれながらに十分恵まれていたのだ。
でもその人は努力して今の人生を切り拓いて掴みとったと信仰している。
その努力は否定しないし、僕も努力すること自体は素晴らしいと思う。
だから僕の努力が足りなかったとして僕が努力しなかったと過去を非難され否定されるのは悲しい。
確かに人が夢や目標に向かって一途に進んでいくのはある種の美しさすら感じる。
必死に勝利を目指して仲間と共に汗を流す甲子園球児とか夏のイイ風物詩じゃあないか。
実際みんなも、どこかでそんな夢のような時期はあった筈だ。
でも努力ってのは、そもそも言葉の綾であって曖昧だ。
一体どこからどこまでが努力の範疇でどこからどこまでが才能やら運やらの範疇なのだろうか。
数字データにしてもカチャカチャいじれるから取り敢えずは置いておいて、でも少なくとも才能だの運だのは僕の体感的には大きい。
努力だ努力だと口で音声を発するのは楽ではあるが、その定義は非常に曖昧模糊としているのだ。
でもそれがサボる理由にはならないし努力を否定することにはならない。
努力を信仰しすぎて才能や運を軽視するのは賛同しかねるが、だからといって自分の人生を昔流行った巻き込まれ系ラノベ主人公みたいにただ流されるままに放置しておいても良いことはあまりないだろう。
努力はするが努力は全てではない。
だってそれは、個人の力量では到底及びやしない生まれた時から決まっている運や才能の世界がどこまでも深く絡んでいるのだから。
気合いだ気合いだと叫んで張り倒した先に気合いと努力でなんでもかんでも解決できるわけでもない。
本当に努力で全て解決できるのなら、極論を言えばきっと誰もが日本有数の超名門進学校卒の東大生だろうし、ごめんなさいと盛大にフられた気になるあの子だって気が変わって振り向くだろうし、貧困や格差なんか宙に消えてみんなが青い地球の上で仲良く手を繋げるような全てが丸く収まる世界平和だって実現する筈だ。
でもそれは残念ながら今のところ誰かが努力して尽力しているかもしれないが叶えられていない。
この魑魅魍魎が跳梁跋扈するこの世界に生まれてきてしまったのは悲しいが、最低限の自由がある程度保証されている人生に一応の感謝を。
これが今現在出した僕の結論である。

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