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競争社会と反出生主義

僕らは生まれてしまった、僕はこの世に生まれてしまったのだ。
気づかない幸福な人もいれば、僕みたいな不幸な人は生きづらさに気がついてしまったのだ。
この競争社会で生き抜くためには、少なくとも望むような普通や平穏を得るためにはどうしても戦わなければならないと。
ただ夢中で夕日が沈むまで遊んでいた子どものころには到底見えなかったものが見えるようになってしまっただけなのだが、それがどうやら重すぎる。
世界はより良くなっているかもしれない、安全性は昔より高まっているかもしれない、でも、それでも歪で意地悪な社会は純粋だった心をいつしか蝕んでいった。
生きていくのがつらい。
生きるのが難しい。
昔だったらなんとも思わなかったことさえ今では気難しく感じる。
オンリーワンでいいんだよと言う割には、やれランキング上位だのやれナンバーワンだのが頭角を表すのだ。
嘘つきは泥棒の始まりだと子どもに教えたのはどこの誰やら。
人が評価される時は大体が誰かと比べたれた時だ。
これはいわゆる相対評価ってやつで、個人における絶対評価なんてのは永遠の神話である。
誰々よりも学歴が高い。
誰々よりも身長が高い。
誰々よりも収入が高い。
という三高は勿論のこと、他にもルックスだのコミュ力だの教育だの運動神経だの健康だの地域だの国家資格だの家柄だの語学力だの人種だの身分だの人気だのと例を挙げていけばキリがなく枚挙にいとまがない。
いつか命の日が消えるその日まで誰かと比較されて競争し続ける人生。
永遠とも錯覚してしまうような終わらない戦いに身を流されてようやく辿り着くのは人生の終焉、墓場、あの世。
こんなに苦しむなら、辛いなら、生まれない方が少なくともマシだった。
だって生まれなかったら幸福になることもなければ不幸になることもあり得ないもの。
プラスである幸せとマイナスである不幸せの総量を足したら不幸せの方が値が大きくて、結果的に残るのは不幸せの方だ。
そんな不幸せな世界に誰がわざわざ産んでくれと、生まれたいと頼んだ?
その世代の少年少女その他の誰もがその強さに、圧倒的存在感に慄きまた同時に愛用もした初代伝説のあのポケモン(三鳥とウィンディじゃないよ)。
あのミュウツー様だって世界的大ヒットを記録した今も根強いファンが世界中にいる映画の劇中でもテレパシーで言っていたじゃないか。
「誰が産めと頼んだ…!
誰が作ってくれと願った…!」と。
あの知能と超能力を持つミュウツー様ですらそう仰られるのだから僕の思想も間違いじゃあないだろう。
クローン製作時みたいに育児が難航したなら尚更である。

僕も知らないうちに痛みもなく身体が泡に包まれて、最後は光の粒になったりしないかなぁ…。

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