読書感想文#5 それってあなたの信仰ですよね?/ブレーズ・パスカル『パンセ』
岩波文庫版、『パンセ』の上中下あるうち上巻を読んだ。 書籍情報は以下。なお引用は他記載無い限り下記から。
ブレーズ・パスカル (塩川徹也 訳), “パンセ(上)”, 2015, 岩波書店.
予め断っておくと、上記の通り全巻読み通したわけではないから、全部読み通したら印象が変わるのかもしれない。といっても、本屋で中・下を眺めたところあまり印象が変わらなそうだったので読むのを辞めてしまった。
『パンセ』というと、「人間は考える葦である」といった警句で有名で、その手の含蓄のある箴言や断章を集めたようなものだと勝手に思っていたが想像と違った。 というより、箴言や断章を集めたものではあったのだが、キリスト教護教論としての色合いが強く、書かれる対象がイメージと違った。
一冊のうち、後半の半分が護教論的な内容で、その部分は正直なところ退屈であった。前半は想像通り含蓄のあるフレーズが多く面白かったのだが。
護教論の部分の面白くなさは、信仰の対象の正しさを信仰の内容を根拠に証明しようとする(少なくとも私はそう感じた)ところにある。 つまり、もともとキリスト教の信仰を持っていない人(私もそうである)に対する、説得的なコミュニケーションになっていないということである。
例えば、パンセに記された有名な概念として、「パスカルの賭け」というものがある。
これは(キリスト教の言う)神を信じるかどうかを賭けになぞらえて、仮に神がいなかったとしても神が存在する方に賭けていれば失うものはなく、もし神が存在するにも関わらず神を信じなかったとき、失われるものが大きいのだから神を信じるべきである、という考え。詳細はwikipediaを参照すると良い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/パスカルの賭け
これは一見、合理的な考えにも見えるが、そもそもここで言う神は別の宗教の神、もしくはそれに準ずるものを当てはめても成り立つ。 もっと言えばある宗教で「他の宗教を信仰したら地獄に落ちる」などという言う神がいたとして、その神が存在してキリスト教で言う神が存在しなかった場合、キリスト教の神に賭けた者は地獄に落ちるというペナルティを負うことになる。
結局のところ、「パスカルの賭け」が成り立つのは、例えば「神ないしそれに準ずる存在はキリスト教の神しか存在しない」とか、それ自体がキリスト教の信仰であるものを持っているからで、それを持っていない人々に対して説得できるようなものではないということだ。
ただし、急いで付け加えておくと、ここでキリスト教やそれを信仰すること自体を否定する意図はない。
例えば数学には公理があるが、その公理はいわば前提として与えられているもので、絶対的な正しさを裏付けるものはない。
一般的に数学というとその正しさは無条件に信じられることが多いが、ではここで「神の存在が信じられない」ということと「数学(の公理)が信じられない」ということはどれほど違うだろうか?
個人的にはそれほど違いはないように思う。
少なくとも私には世界には様々レイヤーで様々なゲームが展開されているように見える。
サッカーをプレイするなら「ボールに手で触れてはならない」という根拠不明のルールを疑うこと無く従わなければならないように、数学も宗教も、あるいは経済や社会とかなんでもそうだが、相対的なゲームを人々がプレイしているだけなのではないかと思う。
もちろん、だからといって、サッカー選手がサッカーに人生をかけることが下らないことになるわけではない。それは数学上で難しい定理を証明するように、あるいは経済的に成功するように、価値あることだと思う。
ただ一点挙げると、多分こういう考え方は相対主義と関連があるが、その観点から、宗教がしばしば持つ「それのみが絶対的な真理である」という考え方が気に食わない。
『パンセ』で展開されるような護教論は、信仰することや信仰対象の正しさを絶対的なものとして扱う点で少なくとも私にとっては受け入れがたいと感じた。
巻末の解説においても触れられていたが、理性によって教理の正しさや信仰対象を把握・説明することは、信仰と理性は別のレイヤーにある(と私は思っている)ものであり、形式だけ論理(理性)的に見せても必ず歪みが生じる。
私のような不信心者にはその歪みを信仰によって埋められないので、『パンセ』で語れられた護教論があまりおもしろくなかった。
もっとも、こうした相対主義的な考え方が教義に反するのだろう、ということも重々承知している。
こうして「君らの信仰は相対的に正しいよ」なんて言われても何も嬉しくないだろうこともよく理解しているので、何もわかってない哀れな人間がなんか言ってら、くらいに思ってくれると良い。
さて、以下は『パンセ』から気に入ったフレーズを抜粋する。
そうだなと納得すると同時に、結局素面には素面の真実があり、適度に酔えば適度によったなりの真実があり、泥酔すれば泥酔したなりの真実があるんじゃないかなという気もする。 折角なので、酒にまつわる好きな引用を別書から持ってきておく。
これはマルメラードフという文学史上においても稀に見るダメ男のセリフであり、どれだけダメかを書くとちょっと胸糞悪くなるので止めておくが(ヒント:この酒を買った金がどこから来たかに着目するとよい)、でも自分から露悪的に振る舞って、苦しみや悲しみの方向へ自ら落ちていくというのも人間の1つの真実だなと思う次第。
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これはマジでそう。 もっとも、パスカル的には神の存在に目を向けな、と言っているんだろうけど。
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これもそうだと思う。 ただ、自分自身について省察したデカルトが「我思う故に我あり」に至ってしまったのは皮肉だなと思う。(たぶん時代的にはデカルトのほうがちょっと前)
デカルトの意図はともかくとして、それは「神ある故に我あり」ではなかったから。
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注釈によればこの「私」が誰なのか論争があるらしい。
私自身の感覚に近いので、個人的には信心深いパスカル自身ではなさそうだなという気はする。
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正しくは「私たち」ではなく「私」だ。これまで独り暗闇の中を暗闇に向かって歩き続けてきたし、生きている以上これからもそう。光を見出してそこに向かって皆で歩いている連中とは違う。
赦しはいらない。業の重さは自分の両足で支えるほかない。それが私という存在の重みだ。文句あるか。