読書感想文#3 何者かであるということ/J. D. サリンジャー『フラニーとズーイ』
nobody
「何者かであれ」という圧力に外的にも内的にも晒され続ける現代人にこれほど刺さるフレーズがあるだろうか。
『フラニーとズーイ』という作品は、ただこの一文のためだけにでも読む価値のある小説だと思う。
惜しむらくはこの英文は日本語にするとどうしても重要なニュアンスが抜け落ちてしまうことだ。
ここで村上春樹の訳を引いてみる。
これは恐らく、フラニーが演劇を辞めてしまったという文脈を重視してnobodyを訳しているのだが、この語に含まれる明文化し難い意味合いがこぼれ落ちてしまっているように感じる。
ここで言うnobodyは日本語では取るに足りない人というように訳されるもので、対義語にsomebodyがある。そのため勿論この台詞には役者としての無名という意味合いも含まれているとは思うのだが、この発言をした際のフラニーの心境を汲み取るにはnobodyが持つもともとの意味を加味する必要があると思う。
ご存知の通り、原義としてnobodyは「誰も~ない」というような、存在の欠如を示す不定代名詞である。恐らく、そこから数える必要のない重要でない人物としての意味に発展したのではないかと思う。
これを踏まえて、フラニーがnobodyという単語を選んだことに、「何者か」でなければ、また「何者か」であることを示して認められなければ、もはや存在していないのと同義であるというような、抜き差しならぬ焦燥が感じられるように思う。
それは、20歳の才女であるフラニーの若さと能力ゆえ強く現れる実存的不安と言ってもいいが、この小説の設定とは異なり現代の日本で生きている私達もこのような「自分とは一体何なのか」という問いと無縁でいられることはまずないだろう。
多くの日本人が共感できる問題を描いている一方で、『フラニーとズーイ』は恐らく当時のアメリカ的な自意識に満ちている。フラニーもズーイも容姿の優れたインテリであり、作品全体としても(『フラニー』と『ズーイ』の前後編で毛色がかなり違いはするが)、スノビッシュなにおいに満ちている。どいつもこいつも自分が世界の真ん中にいるような口ぶりで私には到底共感できないところが多い。(念のため付け加えておくとその肥大化したアメリカ的な自我への苦しみが主題であることも承知してはいる)
それでも、その行き着く先が"I'm sick of not having the courage to be an absolute nobody"であるということはなにか感動を覚えた。全くの別物だと思っていたものが、実は自分が持っているものと本質的に同じものだという意外性がおもしろかった。
ズーイの言葉の解釈
さて、『フラニーとズーイ』はそんな苦しみを抱えるフラニーを兄のズーイが彼の言葉によって救い出す、という作りになっている。
ただあまりにも宗教的な内容が延々と続くので、あらすじから感じる印象ほど読みやすくはないのだが、少しだけズーイの結論について触れておきたい。
フラニーはその自らのエゴへの苦しみから、宗教的な行いを説く書籍に救いを求める。その宗教的な行いというのが、キリスト教であったり、仏教だったり、ヴェーダ教だったり、洋の東西を問わず節操なしに説明されるものだから、書いているサリンジャー本人以外にはわからないだろうというような内容となっている。ただ、恐らくフラニーが惹かれているのは、ある単純な行為の繰り返しによって無我ともいうべき境地に至るということであろう。ズーイは、フラニーが肌身離さず持っているその宗教書について、「休みなく祈り続ける」ことの意味を追い求め旅する巡礼に纏わる本であることを説明した後、こう語っている。
ところが、ズーイが指摘するところによれば、フラニーはその本の巡礼のように宗教的な行為に没頭するわけでもなく、実家に戻り一人殻にこもるように塞ぎ込んでいる。
それは「何者か」でありたいという欲求と、それを捨てたいというジレンマそのものの現れであり、フラニーはいずれも選び取ることができなかった。ズーイはまずその指摘をする。
そしてズーイの提示した結論は、この二者択一に見える道のいずれでもないものであった。
つまりズーイは、フラニーにとっての演技をすることが、巡礼の祈りに相当するものだと指摘している。それでは「神の俳優」とはどのようなことか?
ズーイはここで、数年前に自殺したグラス家の長男、シーモアの言葉を持ち出して、「太ったおばさん」の話を展開する。
ズーイがまだ幼い頃、あるラジオ番組に出演する際、シーモアに靴を磨くよう言われる。
番組の観客や他の出演者を馬鹿にしていたズーイは、そんな相手のために、見えるかどうかもわからない靴を磨くことに反発する。
「太ったおばさん」とは、ズーイが見下している相手の象徴としてシーモアが言った人物であり、「お前は太ったおばさんのために靴を磨くんだよ」(サリンジャー, p.288)と諭している。シーモアは「太ったおばさん」の真意について説明することはないが、ズーイは不承不承に従ううちにその意味を解する。
ズーイが「太ったおばさん」を想像するとき、いかにも世俗的で、少なくとも美しいとは言えない、どちらかといえば惨めな人物を想定した。
しかし、ズーイはこの「太ったおばさん」こそがキリストなのだと言う。
これは恐らく、神を内面化するというような意味であろう。演技をするときに、人にみせるために行うのではなく、自らが内面化した神へ捧げるものとして行うこと。それがズーイが示した答えなのだと私は考えている。
これはあまりに宗教的なもので無宗教を自認する我々には受け入れがたいものなのだろうか?
個人的には案外そうでもないだろう、と思う。
「他人の評価なんて気にするな」「自分の感性を信じろ」そんな言葉は「何者かであれ」というプレッシャーと同じ数だけ世間に転がっている。だが果たしてそれを実践できている人間がどれほどいるだろうか?フラニー然り、それができないから苦しむのではないか?
ここでズーイは他人に評価を委ねるのでなく、自分自身を強く持ち孤立無援に貫くでもなく、自らの内面に神を見出してその神に自らを捧げるという第三の道を提示しているのではないかと感じる。
ここでいう神というのは、例えばキリスト教で指す宗教上の神ではなくて、より個人的な、自分にとっての絶対的、超越的な価値観とも言うべきもので(勿論それは人によっては聖書に出てくる神と一致する)、自分自身がそれに対して劣後していることを前提としたものだ。
そこへ向かって自らを近づけたいと渇望しながら研鑽すべきだと、ズーイは説いているのではないだろうか。
『フラニーとズーイ』を通してサリンジャー自身はかなり宗教的なので、これが彼の真意に沿うものかどうかはわからないが、少なくとも私は『フラニーとズーイ』に示されるメッセージをそのように受け取った。
[1] reality of the thingsの訳。「実相」という語は仏教などの用語であるが、原文はその宗教的な意味合いを含意したか明確には読み取れない。が、個人的には文脈から考えて妥当な訳だと思う。なお、「実相」とはWikipedia先生曰く「『実相』とは真実が無相であるということをあらわす。諸法実相という複合語として使われることが多い。『無相』とは、人間の言葉をはなれ、心でおしはかることのできないことをいう。したがって『実相』とは、真実が無相であり、それが萬物の本来の相であることを意味する」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E7%9B%B8, 2022/10/2閲覧)
[2] ここで言う脱離はdetachmentのこと。宗教用語であり、Wikipedia先生曰く「ヒトが世界における物事、人物、価値観などへの愛着欲求を克服し、それによってより高い視点を獲得するという概念である」。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88, 2022/10/2閲覧)
書籍情報
J.D. サリンジャー, 村上春樹 訳, 『フラニーとズーイ』新潮社, 2014.
Salinger, Jerome David. "Franny and Zooey" Little, Brown and Company, 1961.