青い稲妻 赤い炎 カラフルな風船
おはこんにばんは。伊智小寿々です。
気付けばもう2022年も師走…、私は先日30歳になりましたが、年々、年が過ぎゆくのが速く感じますね_(:3」∠)_今年は全盛期のウサイン・ボルト並みの速さで日々が通り過ぎてゆきました。
まえがき
さて、去年の今頃、音声配信アプリにはまってから発信活動はそっちに移行してnoteは長らく放置していました。しかし先日、誕生日の他にも人生の大きな転機を迎えまして、この際だから30年間の半生を振り返ってみようと思いました。ですので以下は私のbiography的な話になります。よっぽど私のファンという方以外には退屈で何の益もない内容となっていますので、今この記事をお読みの方はすぐにこのページを閉じ、もっと有益な時間の使い方をしてください。あ、でもいいねは押してってね。
転生
1992年、秋も終わろうというころ、後に語り継がれることになるファンタジー号事件が起きた。簡単に説明するとファンタジー号事件とは、琵琶湖の畔からアメリカを目指し、ヘリウム入りの風船を大量にくくりつけたゴンドラでおじさんが飛び立ったという出来事だ。しかしこのゴンドラはおじさん共々、出発2日後に日本の東の海上で消息を絶つ。当時の太平洋にはその年30個目になる台風が温帯低気圧となって進行していた。おじさんの乗るゴンドラを青い稲妻が貫いたのかもしれない。後にこのおじさんは自身のいなくなった地上で「風船おじさん」という名で世間に知られるようになる。
さて、風船おじさんが消息を絶って数時間後、東京郊外の病院で女の赤ちゃんが生まれた。その子は父は公務員、母は医療職という家庭で三姉妹の次女としてすくすく成長した。そして時が来ると、「伊智小寿々」と名乗りSNS上で細々と存在することになる。
最初の記憶
生後僅か4か月で保育園に預けられた伊智小寿々の最も古い記憶は衝撃的だ。当時2歳だった伊智小寿々は給食が大嫌いであった。そのため毎日が、何とか食べさせようと奮闘する保育士との闘いだった。先に食べ終わったクラスメイトたちが各々遊ぶ中、教室の中央で食べ物をさしたフォークを持つ保育士と睨めっこ。幼き伊智小寿々は保育士が根負けして給食を下げるまで決して折れることはなかった。
そんなある日、ついに堪忍袋の緒が切れた一人の保育士が何ごとかを怒鳴りながら伊智小寿々の頬を平手打ちした。伊智小寿々は我慢強い子どもであったがこれにはたまらず声を上げて泣き出した。と、その隙に開いた口に食べ物を突っ込まれた。その後のことはよく覚えていない。後に父に聞いた話によると、3歳になった伊智小寿々は頑なな登園拒否をするようになり、両親はやむなく近所の幼稚園へと転園させることにしたそうだ。
野口さん的小学生
幼稚園への転園した伊智小寿々は、同じ団地に住む4人の幼馴染ができた。全員、女の子で気が良く面倒見がよく、しかも聡明な4人であった。伊智小寿々は彼女ら以外ほとんど友だちの居ない、無口な幼稚園、小学校時代を過ごす。昼休みは図書室で過ごし、家では「エンタの神様」を見る以外は3歳下の妹と遊ぶか、ボーっとしていた。暗くてお笑い好きでヒヒヒ…と笑う私を、家族は「ちびまる子ちゃんに出てくる野口さんのようだ」と揶揄した。
中学デビュー
特に印象に残らない小学生時代を過ごした伊智小寿々は、幼馴染がみんなするからというだけの理由で中学受験をした。そしてけっきょく幼馴染軍団はそれぞれ別々の私立の中学校へ進学した。幼馴染たちと離れた伊智小寿々だったが、中学校の生活は明るく楽しいものだった。陽キャを絵に描いたような気の良い女友達が数人でき、休日も遊んでまわった。中学は共学ではあったが男女で校舎が別れており、交流もそれほどなかったことから痴情のもつれ的な気まずさが発生することもなく、恋愛のれの字も知らないまま能天気に過ごした。しかも中高一貫校だったために高校受験もしなくてよく、そのまま高校に進学するまで遅刻をしたり授業中にゲームをしたりよだれを垂らしながら居眠りしたりする学校生活を送った。
家庭に垂れ込める暗雲
そのまま付属の高校に進学した伊智小寿々は、しばらく中学のころに引き続き能天気な生活を送っていた。成績は常に下の下で教員に怒られていたが、両親はそのことに興味を示しておらず、本人も全く気にしていなかった。しかし家庭環境は徐々に悪化していった。元々、両親は不仲で、神経質な母はいつもイライラし些細なことで金切り声をあげ、父は何かと怒鳴ったり暴力を振るった。しかし年月を経ると、仕事が充実している母は家にいる時間が短くなり、ほとんど父と顔を合わせることがなくなった。一方で父は昇進してストレスが多くなり、子どもたちに八つ当たりをすることが増えた。家事は姉と伊智小寿々で分担するようになったが、幼少期からの家庭環境の悪さが災いしてか、姉はジャイアンと化していた。家事をやれという指示だけを妹たちに出し、気に入らないことがあれば4畳半の子ども部屋の中で伊智小寿々を罵倒したり蹴ったりした。伊智小寿々の体には細かい傷や痣が絶えなかった。これまで表面上は能天気に生きていた伊智小寿々の心の底に常にあった暗澹とした家庭問題の悩みが、ここにきて脳内全てに広がり、心身を蝕んでいった。悩みすぎた伊智小寿々の頭には、女子高生らしからぬ500円玉ハゲができた_(:3」∠)_
しかし問題は時が解決した。母が退職したのだ。時間に余裕ができた母は家のことを以前より担ってくれるようになり、昇進してしばらく経った父の苛立ちも徐々におさまった。そうして伊智小寿々は自分の問題に集中できるようになった。
研究者を目指して
中学1年から高校3年の春にいたるまでずっと下の下の成績で素行も最悪なままきた伊智小寿々だが、高校3年の6月、部活を引退すると同時に周囲が一気に受験モードに入り、やっとハッと目が覚めた。進路を決めなくてはいけない。しかし伊智小寿々は小学生のころから精神的に成長していなかった。皆が行くからというだけの理由で大学に進学することにした。そして家計に気を使って入学金無料で授業料も格安の、自宅から通える公立大学を進路に選んだ。学科は、これも一番好きな科目であるというだけで化学科を選んだ。昔から考える力や頭の回転はイマイチだった伊智小寿々だが、記憶力だけは人一倍良かった。勉強も実は嫌いではなかった。今までは勉強より楽しいことや、逆に緊急の悩みが多すぎただけだ。持ち前の過剰な自信も功を奏し、半年間の勉強の末、見事、第一志望の公立大学に現役合格した。
しかし輝かしいキャンパスライフを夢見て心躍らせる、ということはできなかった。3.11。伊智小寿々が高校を卒業した直後に、東日本大震災が起こったのだ。世の中の動揺も余震もおさまらぬままバタバタと入学し、ヌルっと大学生活がスタートした。このころには朧気ながら「研究者になってすんごい界面活性剤を開発し、発展途上国の貧困な人たちが気軽に綺麗な水を手に入れられるようにしたい」という夢を持った。
トンネルの中へ
朧気ながら大そうな夢を抱いた伊智小寿々だが、大学2年生に上がる直前に左目を怪我した。眼科で網膜剝離と診断され、手術と入院を経たが左目には障害が残ってしまい、視力が大幅に制限されることとなった。そしてちょうど同時期に一人暮らしを始めた。4畳半の子ども部屋で大量のレポートや、高校よりずっと試験範囲の広い大学のテスト勉強をすることに限界を感じたのだ。大学も理学部はかなり忙しく、漫画で読むような余裕のあるキャンパスライフなどどこにもなかった。世の中には東日本大震災のショックもまだ尾を引いていた。そんな中で混乱した伊智小寿々はしっかり体調を崩す。一人暮らしを始めて半年もたたない内に体重が20㎏以上落ちた。病院で各種の精密検査を受けたが原因は不明。心身症ということで精神科の門を叩くことになったのだ。
明けない夜はないと言うけれど
強迫性障害、双極性障害、エトセトラ…、精神科で様々な診断名を付けられながらも、4年に渡り休学や復学を繰り返した。一人暮らしもままならず、けっきょく姉が実家を出るのと入れ替わりに伊智小寿々は実家に戻ることとなった。もはや研究者になるなどという目標は見えなかった。とにかく良くなりたかった。卒業だけでもなんとかしなければと思った。長く暗く、先の見えないトンネルであった。YUKIの「コミュニケーション」という曲に「明けない夜はないさ みんな歌うけど 名もない汗をかいて 流れるだけなのに」という歌詞がある。まさにこのような気持ちだった。苦しいからもがかずにはいられない。しかしもがけばもがくほど苦しい。あまりにも報われなかった。何年間もずっと窒息していて、それでいて死にきれないというような心地だった。「明けない夜はない?では何故、自殺する人がこんなにたくさんいる?」ことあるごとにこの問いで頭がいっぱいになった。
正直、後から思い返してもここからどのようにして快方に向かっていったか、本人もよく覚えていない。ただ、本当に小さな小さな一歩を日々積み重ねるようにして徐々にトンネルの外の光をとらえていったのだろうと想像するだけだ。
レジ係のエース
大学も5回生になった夏休み、体調も回復してきていた伊智小寿々は、近所のスーパーのレジ係のアルバイトを始めた。仕事は単純明快、周囲は高校生のアルバイトばかり。そんな中で伊智小寿々は頭角を現す。みるみる内にレジ打ちのスキルを上げ、様々なお客様対応を身につけ、他のアルバイトを統率して指示出しや簡単な教育までするようになった。そうして店長に「レジ係のエース」と呼ばれるまでになる。
立ちっぱなし声を出しっぱなし、しかも忙しい、と楽な仕事ではないが充実感はあった。あぁ、私は人に必要とされることが嬉しいんだ、と伊智小寿々は感じた。自分は自己中心的で自分以外に興味がないと思い込んでいた伊智小寿々にとって、これは新鮮な発見だった。もはや研究者になりたいという忘れかけた夢や大学卒業という目標もどうでもよくなっていた。もっと人と接する仕事につきたい、人の役に立つ仕事をしたい。そう思うようになった。
再び、能天気な学生時代
研究者という夢がどうでもよくなった伊智小寿々は、自分のやりたいことに一番近い仕事を探した。すると一つの医療職が見つかった。母と確執のあった伊智小寿々は、その母と同じ業種ということで少し躊躇はしたが、職種は異なったために思い切ってその資格を取るための専門学校に入学した。せっかく家計に気を使い学費の安い大学に進学したのに専門学校に行きなおすなど本末転倒なのだが、明るさを取り戻した伊智小寿々はちっちゃいことは気にしなかった。
専門学校はテストやレポート、実習とそれなりに大変だったが、お姉さん同級生たちに可愛がってもらい毎日楽しく過ごした。しかしここでも、順調に卒業というわけにはいかなかった。
死の谷
専門学校も最終学年となった。最終学年では2か月間の臨床実習がある。しかし実習を目前にしてまた家庭内で問題が勃発した。詳細は複雑極まるので省略するが、再び家の中にはジメジメとした苛立ちが立ち込めるようになり、その歪みはボディーブローのように伊智小寿々の心身に募っていった。臨床実習は最も心身ともに酷使する期間である。元々それほど体が丈夫でなかった伊智小寿々は案の定、実習半ばにして体調を崩し、留年が決定した。ただでさえ雰囲気の悪い家庭の中に、大学を中退してセカンドチャンスを与えた娘の何度目かの留年という新たなアクシデントが加わった。母は呆れ、父は怒った。伊智小寿々自身も自分を恥じた。猛烈な劣等感と罪悪感、またダメだったという絶望感、暗い色をした感情の渦に飲まれた。苦しんでも苦しんでも報われなかったから、もういいだろう。一刻も早く楽になりたい。伊智小寿々は死を決心した。
あの子は太陽
伊智小寿々の自殺は失敗に終わった。元々、自分で立てた目標を達成したことなどほとんどなかった伊智小寿々だったが、この失敗には本気で落胆した。風呂とトイレ以外は自室を出ず、一言も喋らずに過ごした。本も読まず、PCも開かず、来る日も来る日も太宰治「人間失格」の朗読を聞いていた。よくこれほどまでに分かりやすく落ち込んだものだ。太宰治は、生まれは1909年だが1948年に没しておりその作品は著作権が切れているため、YouTubeには無料の朗読音声が何種かあった。たまたま選んだ音声には、暗がりの中の一本のろうそくの静止画が付いていた。ろうそくに小さく灯る炎を、朗読を聞いている何時間もの間じっと見つめていた。
そんな生活を続けていたある朝、窓から差し込む陽光に照らされてふと「妹にサンドイッチをつくってあげよう」と思い立った。1か月ぶりにコンタクトを付け近所のスーパーへ材料を買いに行き、キッチンに立ってサンドイッチをこしらえた。パンに挟まれたレタスとチーズとハムがやけに眩しかった。母は気味悪いものを見るような目で伊智小寿々を見ていた。遅れて起きて来た妹は無言で目の前に置かれたサンドイッチを、ほとんど無反応のまま口へ運んでいた。当時の伊智小寿々の負のオーラの強さを考えると、普通の人間ならそんな奴の手作りサンドイッチなど絶対に食べたくないと思うのだが、伊智小寿々の妹は群を抜いて鈍感だった。この日を境に伊智小寿々は再び本ばかり読むようになる。今までのように小説だけでなく、新書やビジネス書のような随筆を沢山読んだ。新しい知識や視点を得るうちに、自身の挫折や絶望が幼稚で小さいものだったと感じられた。それは清々しい敗北であった。
北へ翔んで
沢山の本を読んで今一度、自身の人生を見直した伊智小寿々は、実家を出ることにした。先の自殺騒動で腫れ物に触るようになっていた両親と祖父母に金銭的な援助を受け、ボロくて狭いが安いアパートを借りた。実家からは2つ県を挟む、専門学校に通いやすい場所だ。直後にコロナ禍が発生したが、前より肝の据わったネオ伊智小寿々はちょっとやそっとのことじゃ揺らがない自信があった。留年して最終学年をやり直すことになったが、リモート授業で授業開始5分前まで寝て居られるので非常にラッキーだった。そうして無事、実習と国家試験を終え、卒業、資格の取得を成し遂げた。コロナ禍でのささやかな卒業式ではガーベラやヒマワリ、チューリップなど色鮮やかな可愛らしいブーケをもらった。
諦念
卒業した伊智小寿々だったが、まだ困難は続いた。就職活動が難航したのだ。そもそも就活自体したことがなかった伊智小寿々にとって、コロナ禍で、しかも医療職の就活など何をどうすればよいのか皆目見当がつかなかった。そもそも伊智小寿々は自身が発達障害ではないかとあたりを付けていた。そうだとすればこの、全てのハードルに綺麗にぶつかってきた人生の説明が上手くつくと思った。せっかく取った資格、やりたかった仕事、発達障害という弊害はあるが、就職のために必要なことを淡々と行った。途中で落胆や失望もあった。将来の不安も常にあった。しかしそれら感情とはいつも少し距離を置いている伊智小寿々がいた。達観とまでは言えないが、諸行無常、色即是空、今感じているこの感情、思考、けっきょくどうこうしようとあがいてもなるようにしかならない、そういう諦念がいつも心に横たわっていた。そうして紆余曲折を経ながら地道に就職活動を続けること2年、30歳を迎えた直後、伊智小寿々はついに夢の職業に就くこととなった。
あとがき
昔読んだYUKIの「GIRLY WAVE」というエッセイに憧れて、そんな感じに書こうと思ったけど、なんだか安っぽいサクセスストーリーみたいになっちゃった_(:3」∠)_ 文章って難しいね。
何はともあれ、もしここまで読んでくださった方がいらっしゃったら、本当に本当にありがとうございますた。よいお年をお迎えください。
ぐばい(=゚ω゚)ノ