「闘牛」井上靖―孤独感にも種類がある
先日、ツイッターを開いたら「読書マウント」なる言葉がピックアップされていた。最近の流行りだろうか?もしそうなら、毎年始のインフルエンザ流行に学年一早くのっていた流行に敏感な私は、さっそくこの「読書マウント」に手を付けなければならない。そう思い立ち、善は急げとばかりにこの1949年の芥川賞受賞作品「闘牛」のページを繰ったわけである。
「闘牛」は文庫本100ページ弱の短編で、前に「猟銃」、後ろに「比良のシャクナゲ」の短編を配する短編集の収録作品である。3作品すべてに人間の孤独、それも井上靖の他作品にも見受けられる、ある種限定された形の孤独が書かれている。巻末に、文芸評論家の河盛好蔵氏による解説(昭和25年)が付されている。その言葉を引用しよう。
彼ら(主人公たち)の持つ孤独感は人生の闘争に敗北した人間が、人生に対する自己の不適応性を自覚したときに生じる、骨を噛むような絶望的なものではない。また、いまだ闘わない前に、自己の無能力に絶望するような自意識の過剰な人間の持つ絶望感でもない。(中略)彼らの持つ孤独感には充たされざる夢の持主にありがちな甘いロマンチシスムの影がさしていることを否定できない。
私は小学生のころに井上靖の「しろばんば」「あすなろ物語」「夏草冬濤」を読み、その表現されるところに夢中になった。あの没入感は20年近く経った今でも忘れられないほどだ。上記の長編作品にも同様に、この「甘いロマンチシスムの影がさす孤独感」があったように思う。絶望でもない、自己憐憫でもない、解決することのない不安を内包する孤独感。これこそ私が、井上靖の作品の中にしか見つけることのできなかった、私自身の内面に共鳴するものだったのではないか。私が子どもながら抱えていた、漠然とした「自分は他の人と何か決定的に異なるのかもしれない」という違和感を、静かに、肯定的に、縁取ってくれるものだったのではないか。当時の私が、自分の感じたところを言語化できないまま「しろばんば」に感じた愛着、主人公への親近感。それを生じさせたのはこの仄かに、ときに匂い立つように香る独特の孤独感、猟銃を背負う猟人の後姿が醸すような孤独感であったのだろう。
記憶というのは当てにならないものだから、当時の私が本当にそう感じていたと断言はできないが、今の私はこの結論に満足している。「闘牛」の一文を引用しよう。
幸運が常にその為すところについて廻る、いわば三浦の持って生まれた星廻りのようなものこそ、津上の持っている、ともすれば破局へ突き進もうとする全く対蹠的なそれと、根本的に相容れないのであった。
それな(☞゚∀゚)☞私は生まれてこの方ずっと陰キャだし確固たる陰キャだしよって陽キャは敵。
………(´⊙ω⊙`)フッ…。流行に乗るためとは言え、精一杯の背伸びで名前すら初めて見た、よう知らん大昔の文芸評論家の感じ真似して読書感想文的なもの書いたけど…、疲れたしちょっと自分でも何書いてるのか途中分かんなくなったわ。まぁ無理して流行乗ったり陽キャに扮したりすることなく、陰キャなまま素のままの私でも井上靖の作品とはすごく仲良しできるよって、そゆこと。
あ、あと冒頭で言った「読書マウントのために読んだ」ってのは嘘です。それよりちょっと前に読み始めてました。ではでは。もう二度と堅い文章なんて書かねぇ。グッバイ、アディオス、オフーブァー、ファーアプスィドー、さよなら!