「やむを得ず信者」
人間は自分の行動を自由に決めている。すなわち、人は自由意志によって行動する。このことに同意する人は今の日本の社会の中にどれだけいるのだろうか。私が30年弱生きてきた肌感覚では程度の差こそあれ、ほとんどの人が自由意志の強さを信じているように思う。しかし、果たして「自由意志によって」と「やむを得ず」の境界はどこにあるのだろうか。
自由意志を言い換えるなら、自分の行動を自分で決める力である。例えば、他人を物理的に傷つければ罰則が科される。それは「この人(もしくは、誰か)を傷つける」と自分の自由意思によって決めたために、その自由に伴う責任として罰則が科されるのだ。
しかし、人間の行動は私たちがふつう想像するよりも遥かに大きく、環境の影響を受けている。しかもそれは現在の環境だけでなく、その人が過去に置かれていた環境、すなわち経験も含んでいる。幼少期の被虐待や機能不全家族などの逆境的な体験が、生涯に渡ってその人のパーソナリティに多大な影響を及ぼすことは、数々の文学作品でも描かれてきたし、ACE(逆境的小児期体験)という概念によってエビデンスも示されている。ACEの関連の疫学研究によると、虐待を受けて育った人は他者への攻撃性をコントロールできなくなる傾向があるそうだ。そこで刑事罰では情状酌量という制度があるが、それも裁判官の個人的な価値観などによって変動するもので、もっと現実的に責任の程度を考える際にはあまり当てにならない。
そこまで大仰な話でなくとも、「疲れていなかったらこんなことはしなかった」とか「苛立ってなかったらあんなことは言わなかった」くらいなら誰にでも身に覚えがあるだろう。そしてその疲労や苛立ちは大体が自分の責によらない、外部から及ぼされたタスクやトラブルによるものだ。元々の体力や心のキャパシティを鍛えておかないのは自分の責任だろうと言えないこともないが、人が何事を鍛錬するにも到達点の限界が才能という形で生まれつき備わっていて、残念ながら「あの時はああするしかなかった」と納得するしかないことも多い。
だから、人の行動は自由意志によってだけでなく、「やむを得ず」によっても決まってくるということを、覚えておく必要がある。自分も他者も、むやみに責めることがないように。私見だが、他人を責める傾向が強い自由意志信者には、いろいろな物事を諦めずに済んできた人が多いように見える。それは当然かもしれない。自分の成功が環境のおかげと思うよりは自分の意思によってだったと思う方が、その人に与えられた環境の中では自然なことだろう。つまりその人もある意味、「やむを得ず」自由意志信者になっているのだ。かくいう私はいろんなことを諦めざるを得なかったので、「やむを得ず信者」である。この姿勢は甘えているとか、虚無主義などと批判されることもあるが、私だってやむを得ず「やむを得ず信者」なのだ。ご容赦願いたい。
…(=゚ω゚)、就活の作文の練習をしようと思いましてね…、オーソドックスな、起承転結に沿った作文書こうと思ったんだけどね、1200字越えたし、「結」が長すぎるし、そもそも内容がちょっと反社会的な気がするし…、
(=゚ω゚)、もっとちゃんと作文について知識をインプットしてからリベンジする。精進しまする!(=゚ω゚)ノ あでゅー!!