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#0 思索と収穫とー木庭顕を素材としてー

一読書子として,感じたことー学び,発見,思索,そして疑問-を書き記しておくことには,一定の意味があると感じている今日この頃.

思いつきは思考となり,それは時間とともに変化し,そして忘れられ,あるいは蓄積されていく.その繰り返しが,日常だと思う.

モレスキン(Moleskine)を使ったことはないけれど,ヘミングウェイやピカソは,肌身離さず持っていて,アイデアを書き留めていたといいます.霊感(インスピレーション)は,突然やってきて,また去っていくものなのでしょう.

前置きが長くなりましたが,このシリーズでは,ある学者の著作をもとに,いろいろと考えたことを書き記すこととします.その学者とは,一般にはローマ法研究者と言われていたり,ご本人は歴史学徒と自らを呼んでいます.長らく,東大法学部に勤め,最近は一般向けの本も著し,学士院賞まで受賞した方.一部の皆様は,ここまで読んだだけで,誰かが分かるかと思います.

ついでに,言語学,文化人類学も駆使して,政治とデモクラシー,そして法の歴史的基盤を探求し,信用論を通じて,経済までも論じようとしている,といえば,おそらく,もう一人の方しか特定されないでしょう.

それは,木庭顕先生,1951年生まれ,三鷹市出身.最近も,精力的に学究と著作活動を続けられているようです(以下,文脈によりますが,木庭先生と呼びます).

代表的著作は,いわゆる三部作と呼ばれる,『政治の成立』『デモクラシーの古典的基礎』『法存立の歴史的基盤』(いずれも東京大学出版会)であることに異論はないと思いますが,おそらく学生向けに書かれたと思われる「笑うケースメソッド」シリーズや,高校生向けの公開講座をまとめた一般向けの本も書かれています.

まず,木庭先生について知らない人にとっては,その内容をざっと説明しないことには,この「note」ーどちらかというと,木庭先生の御説に対する,疑問,批判(クリティーク),異論-を読んでも,問題意識が分からないと思います.

なので,できるだけ個別記事で,木庭先生の主張を提示しつつ(そして,それが一番難しいところだと思いますが),それを素材に,思ったことをぶつけてみようと思っています.

ただ,前提として,冒頭に申し上げたとおり,私自身は「一読書子」にしか過ぎません.研究者でもなく,立派で意味のある,論文のような内容を目指しているわけではありません.

そして,俗流,俗説という言葉もある通り,考察の対象を正確に理解すること、さらに素材に何かを論じること、それがいかに大切で難しいことか,肌身で感じているところです.木庭先生批判,などというと,同業の学者さんにとっては,身震いのすることかもしれませんし(それくらいすごい先生です),逆に,いわゆる素人,門外漢がそれを行うならば,誤解に基づいた,的外れで,意味のない論考に終わってしまうかもしれません.

そのような可能性は注意しながらも,それでも,とにかく書き記す,ということ優先して,間違いに気づいたこと,思い直したことは訂正しながらも,とにかく書き始める,ということ選んだ次第です.

そもそも,批判(クリティーク)の対象にするというのは,その対象にするだけの価値がある,と思っていることが前提で,決して,低く評価している,というわけではありません.

ヨーロッパ哲学は,プラトン哲学の注釈に過ぎない,という言葉もあるそうです.中にはつまらない注釈もあるでしょう.本noteも,木庭先生の関する,ある側面からの,些細な注釈に過ぎないと思います.

それを自覚しつつも,まずは自分のため,感じた違和感を言葉にし,それを突き放してみて,できるだけ客観的にみる,そしてさらに考える,素材としては,政治,デモクラシー,法,言語,人文主義,哲学,宗教...文句なく広い分野に及ぶ.知的に努力を必要とすることは間違いありません.それは,決して意味がないことではなく,少なくとも個人的に価値がある,そう考えたのです.

noteという媒体を利用したのは,過去にブログ(アメブロ,ライブドアなど)に挑戦したことがあって,多少でも世間の目に触れて,アクセス解析をみることが,書く動機につながったからです.今さらブログでもなく,noteのほうがシンプルで,書くことに特化できるし(実際,ブログのように背景,アイコン,プロフィール等のステップは一切なかった※追加-後から追加しました。なくてもすぐに始められるということのようです),なんか時流に合っている感じたした,そんな単純な理由です.

そうして気軽に始めたところですが,思うに,物書きの職業の中でも,学者さんはすごいと実感しているところです.言葉にするのは,単に読むよりも,ものすごい労力を必要とします.まして,考えたことをただ書くだけでなく,先行研究にあたり,一次資料を渉猟し,苦闘のうちに言葉を紡ぎだす・・・自分にはまねができませんが,少なくとも無責任なことは書きたくないので,どこに書いてあったのか思い出して,出典にあったって,一応裏を取る,参考文献にも当たってみる,という最小限の作業をするだけで,とんでもない労力を使うんだなと,思っているところです.

さて,私にとって木庭先生とは,かのルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』について,無限の思考に誘うといった書評を書いていた人がいましたが(こちらは出典は忘れました),そのような存在です.そうした思考の足跡について,書いていきたいと思います.実は,25のタイトルを書き出し,テーマについて計画を立てていますが,その中の書きやすい内容から,書いていくことになると思います.

それでは,しばしお付き合いのほど,よろしくお願いします。

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