スポーツには一生を捧げる価値があるが、部活にはそんな価値はない
※本記事は、2018年5月23日に弊社ブログ「パブログ」にて公開した記事です。
アメリカンフットボールの大学交流戦で、日大の選手が関学のクォーターバックに対して危険なタックルをした問題で、ついに昨日、タックルを行った日大の選手本人が実名・顔出しで日本記者クラブで記者会見を行いました。
まず会見を開いた日大の宮川選手の勇気と誠意に最大限の敬意を表します。競技中のこととはいえ、犯してしまった行為は確かに良くない。良くないけれど、それを素直に認め、実名・顔出しで謝罪し説明する。若干20歳の彼が自らの言葉で、誠実に語る様に僕は感動すら覚えました。
そんなニュースを見て、僕が一番辛かったのはこれです
「アメフトを続けるのが苦痛。自分にアメフトを続ける権利はない。やるつもりもない」と競技から引退することを明言した。
--ご自身にとって、アメリカンフットボールはどのような存在なのでしょうか。
「私自身、高校のころからアメリカンフットボールを始めたのですが、初めてコンタクトスポーツを始めて、とても楽しいスポーツだと思っていました。でも大学に入って厳しい環境になり、徐々に気持ちが変わっていってしまった部分もあると思います」
--どう変わっていったのですか?
「好きだったフットボールがあまり好きではなくなってしまった、というのがあります」
--それはどうしてですか
「厳しい環境に身を置くことになった。それで好きではなくなってしまったのかな、と思います」
断言しますが、スポーツをやるのに権利なんて必要ありません。全てのスポーツは万人に開かれており、それは国境も、時間も、人種も、宗教も、政治も、経済も、全てを超えます。僕が歯を食いしばっている練習している時間と同じだけ、いやもしかしたらそれ以上に、あいつも頑張っていて、あの国でも誰かが頑張っていて、そんなことに思いをはせる瞬間、スポーツが自分と世界を繋いでくれていることを実感することができます。それは権利とは真逆の、大きな自由です。
スポーツが自分と世界をつないでくれる自由は一生を捧げるに値します。ですが、スポーツをする場所であるはずの部活は果たしてどうでしょうか。勝利至上主義、監督という絶対君主がのさばり、上意下達が横行する旧態依然とした組織は、もしかしたら強豪校にこそ根強いのかもしれません。今回の件で部活は、世界とつながる自由どころか、選手からスポーツそのものを奪いかねない危険性を孕んだ異質な共同体に成り下がりました。そしてこれが「一部の限られたチームの問題」と言い切れないところに、闇の深さを感じます。
10代後半から20代前半の大学生競技者にとって、その異質な共同体が全てです。そんな共同体に一生を捧げる価値などありません。違和感を覚えたら、そんな共同体なんて、さっさと逃げ出すに限ります。その共同体以外にも、スポーツを通じて世界とつながる自由をくれる居場所はたくさんあります。
この共同体しかお前のいる場所はないと選手を洗脳し、危険プレーを強要し、本人に贖罪の機会すら与えず、生徒自身が実名で会見を開かざるを得ない状況をつくり、「意思疎通に誤解があった」と噴飯ものの言い訳をさらす日大の大人たちの罪は深く重い。取り返しのつかないことをしてしまったのは、宮川選手ではなく、宮川選手から自由を略奪した周りの大人たちだ。猛省では足りない。
ご参考:アスリートのキャリア形成を考える