ミルクボーイの笑いについて
ミルクボーイの笑いについて、去年のM-1終わりから、ず〜っと考え続けている。もう半年近くも経つから、いい加減しんどくなってきた。とりあえず、現時点で私はこう思ってるよ〜的なことを書き留めておきたい。かなり大雑把に断定を使っているが、根拠があるわけではなく、すべて「思う」レベルの話です。まとまっていない部分も多々ありますが、「こんな考えもあるのか」程度にお読みいただければ幸いです。
ミルクボーイはよく「僕らのファンは年齢層が高い」と言う。「便箋に丁寧な文字で手紙が届く」とか「声をかけられて、おじさんのええ手帳にサインしてます」という話も聞く。なぜミルクボーイは、ご高齢の方々の琴線に触れるのだろう。声が聞き取りやすいから?内海のダブルのスーツから漂う昭和感のせい?それとも、モスキート音の逆だったりして。ミルクボーイは、年をとるほどよく聞こえる周波数のような「何か」を発していたのだろうか。
M-1 グランプリ2019の優勝決定戦に残った、ぺこぱ、かまいたち、ミルクボーイ。3組の漫才の特徴を称して「誰も傷つけない笑い」というものがあった。そして、ミルクボーイ自身はそんなキャッチフレーズを否定していた。僕らめちゃくちゃ毒ありますよ、と。確かにミルクボーイの漫才は、強烈な偏見によって笑いをとるスタイルだ。その中でも、コーンフレークと最中はまだ出せる、ミルクボーイにしては「平和なほう」の漫才だったのだと思う。
じゃあ、ぺこぱ・かまいたちの漫才と、ミルクボーイの漫才の違いはなんだろう。
ぺこぱとかまいたちの漫才は、二人の掛け合いで設定や関係性を構築したり、ある種の人物像を即席で再現し、その場で自己完結させるスタンドアローンの漫才である。設営から撤収までを二人で行う。対して、ミルクボーイの漫才は、二人の掛け合いと観客との間でイメージをシェアし、その的(まと)を「ある」と「ない」でストラックアウトのように撃ち抜いていく漫才である(しかも真ん中だけ残すスタイル)。設営と撤収は二人と観客の間で行われる。いや、設営と撤収が曖昧であるからこそ「もらうもの」のつかみと、「おとんが言うには」のすこし弱いオチを設けているのだとも言える。
大きな違いとして、観客(のイメージ)を利用するという点が挙げられる。二人で行う掛け合いのおかしさをそのまま観客に放射する場合、構築される設定や関係性を保持しながら話の筋を追う負担は観客に強いられるが、ミルクボーイの漫才では、ふつうに生きて、漫才に出てくる「もの」が視界の端に映ってさえいれば、あとは「何も考えずに笑える(サンドウィッチマン富澤)」ようになっていて、観客の負担が軽いのだと思う。
それに加え、ミルクボーイの漫才の「的」は、生きてきた長さ(年齢)に応じて増える(=わかる)。つまり、ミルクボーイの漫才で笑えること自体が、生きてきたこと(過ぎた時間)への承認になるのではないか。
対して、よくできた笑い、完成されたスタンドアローンの笑いは、実はセルフサービスの笑いだったのではないかとも思う。人を傷つけないために、漫才師側は、ネタの中で素早く設定や関係性を構築し、観客に理解させる負担を強いられる。そして観客側は、それらの組み立てを理解して、脳内に積み残していく負担を強いられる。この「傷つけないこと」をめぐる、漫才師と観客とのいびつな関係を、間に「モノ」を挟むことで一時的にご破産にしたのが、ミルクボーイの漫才だったのではないか(ただし、傷つくリスクは「モノ」と関わる当事者へとスライドされただけで、なくなったわけではない)。
ミルクボーイがネタで想定している(あたるかあたらないか判断している)のは、おそらく自らの年齢(30代半ば)〜±15歳までだと勝手に思っているのだが、コーンフレークに関してはかなりその幅と裾野が広かった。それでも10代は微妙と知りながら、あえて「切った」ような気もする。本来であれば、ニューヨークが米津玄師を出し、見取り図がバチェラーを出したように、もう少し年齢を下げればいいものを、なぜかその逆を張った。そして、決勝戦では更にレンジを上げた(というより、完成度とワードの認知度がそのまま笑いの対象範囲に固定されてしまうから、動かせなかっただけかもしれない)。