第54回日本音楽教育学会での口頭発表を終えて
ピティナ音楽研究所音楽教育研究室研究員の石川裕貴です。先月,第54回日本音楽教育学会にて口頭発表を行いました。発表題目は『ピアノ教育における〈イメージ〉や〈感情〉の弊害:ピアノレッスンにおける参与観察とインタヴュー調査を通して』で,ソンタグの〈反解釈〉の思想を視座として,参与観察とインタヴュー調査を行い,ピアノ教育に求められる〈言語〉について考察しました。
ソンタグの〈反解釈〉の思想については,「ピティナ・ピアノ指導者ライセンス ピアノの先生のためのハンドブック『指導のいろは』」にて,記事を執筆しましたので,そちらをご参照ください。
ここでは,ソンタグの〈反解釈〉の思想を視座として,実際のピアノレッスンにおける参与観察とインタヴュー調査の結果から,ピアノ教育に求められる〈言語〉について考察していきたいと思います。
1.調査方法
〈音楽〉そのものの〈形式〉に寄り添ったピアノレッスンと,〈イメージ〉や〈感情〉などの〈内容〉を重視したピアノレッスンの参与観察およびレッスン後のインタヴュー調査を実施し,レッスン受講生のピアノを演奏する上での意識にどのような影響を及ぼすのかを検証しました。
調査方法については,下記の通りです。
【調査期間】
令和5年3月~5月(3か月)
【インフォーマント】
ピティナ所属のピアノ講師Xが勤めるピアノ教室に通うA(小学1年生),B(小学3年生),C(小学4年生)計3名
【扱った楽曲】
普段扱っている練習曲および令和5年8月の発表会に向けた楽曲
A・・・「バスティン パーティC」(東音企画),
『ちょうちょう』,『いとまきのうた』
B・・・「バスティン2巻」(東音企画),
『ブレ』,『雨上がり』
C・・・「パーナムピアノテクニック1」
(全音楽譜出版社),『なごり雪』
【調査の流れ】
2月・・・講師Xおよび生徒A,B,Cへの研究の承諾,打合せ
3月・・・普段のレッスンの様子の参与観察およびインタヴュー
4月・・・〈内容〉を重視したレッスンの参与観察およびインタヴュー
5月・・・〈形式〉に寄り添ったレッスンの参与観察およびインタヴュー
参与観察においては,3月はこれまで行われてきた普段通りのレッスンを,4月は〈イメージ〉や〈感情〉等,〈内容〉を重視した語彙でのレッスンを,5月は「強弱」や「リズム」,「速度」など,音楽の〈形式〉に寄り添った語彙でのレッスンを,それぞれA,B,Cの3名にピアノ講師Xが実施し,その様子を分析しました。また,感染症対策により,直接ではなくオンラインの観察および撮影の録画を行いました。
インタヴュー調査においては,2月にA,B,Cの3名とやり取りを重ね,3月,4月,5月の月末に,半構造化インタヴューを実施し,〈イメージ〉や〈感情〉を重視することや〈音楽〉そのものの〈形式〉に寄り添うことで,インフォーマントにどのような効果や変容,問題点が見られたのかを分析しました。また,参与観察同様,感染症対策により,直接ではなくオンラインのインタヴューを行いました。
2.結果と考察
2.1 参与観察
3月の参与観察では,ピアノ講師Xは曲の背景を説明したり,その場面の写真を見せたりして,曲の情景をイメージさせることと,「猫の手」や「ベタベタ」などの表現を使って,曲の旋律のつながりを滑らかにするための手の形を教えることに重点を置いていました。
4月の参与観察では,「この山には何があると思う?」,「季節はいつ?」など,ピアノ講師Xは〈イメージ〉や〈感情〉に偏った質問をし,レッスン受講生はとても楽しそうにレッスンを受けていました。しかし,〈イメージ〉や〈感情〉ばかりに集中した結果,話が脱線し,ピアノレッスンの演奏時間は3月に比べて激減しました。
5月の参与観察では,楽譜を見ながら音色や強弱,リズムを中心にピアノのレッスンを行いました。また,それぞれの音楽の要素について,どのような演奏の工夫ができるかを考え,演奏に反映させようとしていました。
2.2 インタヴュー調査
半構造化インタヴューのやり取りの中で,レッスン受講生のピアノを演奏する上での意識にどのような影響を及ぼすのか読み取れた反応を,下記にまとめました。
【3月】普段のレッスン
「今月のピアノレッスンで何を学びましたか?」
A「手の形の意識。」
B「音のつながり。」
C「あまり覚えていない。」
「ピアノを上達させるために必要なことは何ですか?」
A「ピアノをたくさん弾くこと。」
B「自信を持つこと。」
C「練習あるのみ。」
【4月】〈内容〉を重視したレッスン
「今月のピアノレッスンで何を学びましたか?」
A「指がズボンを履いているつもりでピアノを弾くこと。」
B「舞曲なので,踊っているつもりで弾くこと。」
C「冬の季節だと思ってピアノを弾くこと。」
「イメージした結果,ピアノの演奏が上達したと感じましたか?」
A「母に怒られてたくさん弾いたらピアノが少し上達した。」
B「うーん,微妙。」
C「冬を音でどう表現するか難しい。」
【5月】〈形式〉に寄り添ったレッスン
「今月のピアノレッスンで何を学びましたか?」
A「速さに変化をつけるに,メトロノームを使って最初はゆっくり練習し,徐々に速くしていくこと。」
B「同じメロディーでも,最初の部分は大きく,次の部分は弱く弾き,最後の部分は音の高さが徐々に低くなるのでデクレッシェンドすること。」
C「柔らかい音色を出すには,指を寝かせて音を連打すること。」
「4月と5月,どちらの方がより演奏が上達しましたか?」
A「5月。」
B「5月。」
C「5月。」
2.3 考察
今回の参与観察およびインタヴュー調査の結果から,以下のことが明らかとなりました。
すべてのインフォーマントが,〈イメージ〉や〈感情〉といった〈内容〉に焦点を当てたレッスンよりも,「強弱」や「リズム」といった〈形式〉に焦点を当てた語彙を使ったピアノのレッスンの方が,レッスン受講生はピアノの演奏が上達すると感じていた。
〈イメージ〉や〈感情〉といった音楽から派生した〈内容〉に偏った語彙は,音楽から逸脱した解釈を招き,音楽そのものの〈形式〉を忘却させることになる。
ピアノ指導者は,レッスンで用いる語彙や言語の目的と方法を明確にしなければならない。
とりわけ,3については,〈内容〉に基づく語彙を用いてはいけないということではありません。ピアノ講師Xが「猫の手」や「ベタベタ」などの表現を用いて,曲の旋律のつながりを滑らかにするための手の形を教えていましたが,「内容への考察を形式への考察のなかに溶解せしめる種類の批評」(ソンタグ,1996 p.31)のように,ピアノ指導者として,明確な意図に基づいて,音楽の〈形式〉に寄り添うように指導することが重要だということです。
3.Final Thought
ピアノを演奏する上で,〈イメージ〉や〈感情〉を抱くことは大いにあり得ることだと思います。しかし,その〈イメージ〉や〈感情〉は音楽の〈形式〉そのものではなくそこから派生したものであり,なおかつ恣意的なものです。ピアノ指導者は,指導者自身の〈イメージ〉や〈感情〉を受講生に押し付けるのではなく,ピアノ受講生の個の特質やピアノ演奏の特徴を掴みながら,〈音楽〉そのものに寄り添うよう指導することが求められるのです。
今後の展望としては,J.デリダの〈脱構築〉やM.ガブリエルの〈新実在論〉の思想をピアノ教育に援用し,ピアノ教育に求められる〈言語〉について,さらに哲学的に検討していきたいと考えています。また,調査対象や扱う楽曲,レッスンの仕方等の内容等,調査方法を精査したいと考えています。特に,今回の調査では,受講生の演奏に対する意識の変化の考察にとどまり,演奏そのものの変化の調査にまで及んでおりません。今後は,さらに調査対象者の人数や年齢幅を広げるとともに,演奏の質の変化を調査する方法論を明確にしていきたいと思います。
【引用・参考文献】
Cook, N. (2000) Music: A Very Short Introduction. ed. Oxford University Press.
Denzin,N.K.(1989). The Research Act (3rd edn).
Englewood Cliffs, NJ: Prentice Hall.今田匡彦(2015)『哲学音楽論 音楽教育とサウンドスケープ』恒星社厚生閣.
ソンタグ,S.(1996)『反解釈』高橋康也,出淵博他訳,筑摩書房.
若尾裕(2017)『サスティナブル・ミュージック:これからの持続可能な音楽のあり方』アルテスパブリッシング.