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飯田有抄のショパコン日記33〜古海行子さんを入魂エール耳で聴く!

たったいま、古海行子さんの3次予選の演奏が終わったばかりです。ちょっと・・・感動がすごすぎて・・・

でもこの日記レポートでは、とにかく現地で受けている衝撃(もちろんいいもの)を、すぐにお伝えすることにしているから、書き進めてみます。

よく、「ゾーンに入る」っていうじゃないですか。スポーツ選手などが、最高のパフォーマンスを出す瞬間の状態。とても冷静に、でも究極に冴えた感覚に入るときのこと。
古海さんご自身が、そうなっていた、とかそういう話ではありません。「ゾーンに入った」のは、こちらなのです。つまり、聴き手である私です。

2次予選のレポートでも、「古海さんの音楽には、聴衆との対話がある」という感想を書かせていただきました。「私はこう思うのですけれど、みなさんはどうですか?」って。とても誠実に問いかけてくれるような。

今日も序奏とロンド op.16から、そのような印象を持ちました。そしてそれがさらに、2次予選よりもベールが一枚取り払われたかのような形で、ぐっと作品の魅力を、古海さんが近づけてきてくれるのです。私の座る上手側のバルコニー席からは、奏者の表情もとてもよく見えるのですが、古海さんは2次よりも、力みの抜けた、とても美しい表情です。端正なプレゼンテーションでありながら、音価の重力変化やハーモニーの多様性をきちんと捉えて、ナチュラルに伝えてくれる。どこにも恣意的なものがなく、すべて音楽的な必然性による表現で、「どうですか?」と。

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3つのマズルカ Op.59では、変イ長調で「ニコッ」とした音で終わり、嬰ヘ短調で「でもね!」と力強く入る。ああ、音楽はコミュニケーションである、言語である、と誠にそう感じるわけであります。

ソナタ第3番では大変に凛々しく、このあたりから、聴き手である私が(!)、だんだんと「ゾーン」の世界へ・・・!
日本のコンテスタントたちに全力でエールを送る気持ちで聞き続けていることは確かなのですが、もはや途中から、完全に「作品と私(←筆者のことね)」「ショパンと私」「音楽と私」の世界に、気がつけば入っていた。古海さんという演奏者が、その媒介者となって。これは演奏芸術というもののあり方の、ひとつの理想ではないでしょうか。奏者自身は、いつもどこか冷静に俯瞰する力を持っているからこそ、聴き手をそのゾーンへと、導いてくれるのです。でも、第4楽章のFinaleでは古海さん自身も極まった様子が受け取れました。そこにまた共感してしまう。

すいません、何言ってるか、伝わりますでしょうか。ものすごく抽象的な表現で申し訳ない。

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やや興奮のままに書いてしまいましたが熱量高い3次の現場からでした。
本当に美しかった!!


※記事の速報性を上げるため、写真は2次予選のときのものです。
写真:©Wojciech Grzedzinski/ Darek Golik (NIFC)

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