意場所作り
ひとが失望した時というのは言葉を発しなくともわかる。
“目”だ。
「目は口ほどに物を言う」
とはよく言ったもの。
今まさに、私はそういう“目”を向けられている。
今から1時間前。
私は、担当患者である小林さんの退院前の家屋調査のため自宅へ来ていた。
小林さんは2か月前に、自宅の勝手口で転倒し、左大腿骨頸部骨折という股関節の大怪我を負ってしまった。
その後、懸命のリハビリで、小林さんは杖があれば外歩きや買い物ができるレベルまで回復し、晴れて退院間近となっている。
今回の家屋調査の目的は、家で安全に過ごすために必要な手すりの位置や動作の方法を確認するため。理学療法士からすれば、ごく一般的な家屋調査だ。
唯一気になるのは、小林さんの家はとても古い、いわゆる古民家のような作りだということ。
家には土間があり、そこから勝手口へ抜けられるようで、これまでは出かけるには玄関よりもそちらを通る方が便利だったらしい。
しかし、土間は薄暗いため高齢者にとって転倒リスクの高い場所、しかも今回はそこで転けているということもあり、退院したら勝手口は使わず、玄関から出入りするように娘さんから散々言われていた小林さん。
「まぁ、仕方ないよね」
と渋々納得されていた。
しかし、いざ小林さんの家に入ると、勝手口から出入りしていたことは当然と感じた。
土間は普段過ごしている居間から、扉一枚開けるだけで出られて、すぐに勝手口にたどり着く。確かにこれは便利だ。
かたや玄関は居間からは家の真逆の場所にある。
「あー、確かに勝手口使うと出やすいですねー」
私がそう話すと、
「でしょう?玄関は宅配の人ぐらいで、家族も近所のお友達もみんな勝手口から出入りしてるのよ」
と、嬉々として小林さんは答える。
小林さんが言い終わるや否や、娘さんが言った。
「便利でも、ここでつまずいたのも初めてじゃないでしょ?急いで出かけることもないんだから、ちゃんと玄関から出かけるようにしてください!」
娘さんはなんというか…お母さん想いなのだが、少し気の強い方だった。
小林さんも
「今となっては娘には逆らえない」
と入院中に吐露していた。
「いや、わかってるけどね。ここは便利やったよって話してるだけじゃない」
小林さんはその場を取り繕うように言った。
さて、この場には私と小林さん親子のほか、退院支援の看護師「和田さん」と小林さんの担当ケアマネジャーの「高木さん」、福祉用具専門相談員の「宮部さん」がいた。
本当は小林さんを担当する作業療法士の「山田くん」も来る予定だったのだが、体調不良ためこの日は欠席であった。
私は宮部さんに小林さんの現状を伝え、トイレや玄関では小林さんに動作を実践してもらいながら最適な福祉用具を提案した。
元々ベッドを利用していること、風呂、トイレには小林さんの亡くなられたご主人に介護が必要だった時につけた手すりがあることから、福祉用具の選定や動作方法の確認はスムーズに進んでいた。
玄関には段差解消付きの置き型手すりを、ベッドの横には立ち座りが安全に行えるようにつっぱり型の手すりを設置した。
「これで安心してお家に帰れそうですか?」
と笑顔で問いかける和田さんに、「うん」とうなずきながら小林さんが答えた。
「そうねぇ…手すりがあると楽にできるからいいわ。この歳になって1人でこんなボロ家に住んでるもんだから家族にも心配かけたらダメだと思って施設入ることも考えたけど、やっぱり家がいいからね」
その時、
「ガチャ!ドン!」
と、開けようとして開かなかったドアの音がした。
音源は勝手口。
慌てて、小林さんの娘さんが勝手口に走り、扉を開けた。
「あー、酒井さん!」
酒井さんは小林さんとはよくお茶したり一緒に買い物に出かける仲良しのご近所さんらしい。リハビリ中に何度か話題に上がっていた人なので私も覚えていた。
実際の酒井さんは、おしとやかな印象の小林さんとは違い、ガツガツとしたパワフルな女性だった。
「病院の車が止まってたから、退院してきたんかなって思って覗きにきてん。小林さん、元気か?」
「ありがとー。元気よ。今、手すりをつけるための打ち合わせしてるのよ」
勝手口から出入りするのは近所の人も…と言っていたが、まさにこんな感じなのだろう。
「あ、そしたらまた来るわ!邪魔したらあかんから。小林さん、退院したら電話して!お祝いでケーキ買ってくるから!あと、アンタここで転けてんからここにも手すりつけといてもらったら?」
ほとんど一方的に話して酒井さんは手をあげて帰っていった。
「なんか…嵐のような人ですね」
「そうそう。面白い人なのよ」
「昔っからやね。見た目通りの元気な人です」
酒井さんはご近所だけあって娘さんとももちろん面識があるようだ。
「まぁ、ああやってこの勝手口からはいろんな人が来るんですよね。母は友達も比較的多いので。ただ、母も転んだし、今の酒井さんなんかも高齢者だからここで転ぶ可能性あるんですよね。だから便利なのはわかるけど、土間と勝手口には出ないで欲しいんですよ」
娘さんの言うことはもっともだ。元気な人でも転倒は避けられない。
「ご友人にも玄関から入ってって言っとかないといけないですね」
私がそういうと、小林さんはえっ、と驚いた顔をした。
「酒井さんとかにも?私が使わないだけじゃなくて?」
「やっぱり、土間は薄暗いし、今後勝手口の段差で酒井さん達が転ぶかもしれないから、玄関の方がいいかもしれないですよ」
「今酒井さんが言ったみたいに、そこにも手すりをお借りすることはできないの?」
「それはちょっとできないんです。介護保険を使うので、小林さん自身がお使いになるものしか」
ケアマネジャーの高木さんが、小林さんに説明してくれた。
「じゃあ、私もたまにそこから出入りするかもしれないし、一応つけといてもらうとかは?」
「何言ってるの?そんな一応とかはダメって!そもそも、勝手口使うのはやめようって話でここまできたでしょ?」
娘さんは半ば怒り気味に小林さんへ言った。
小林さんはうーん、と困った顔で何も言わなくなってしまった。
正直、私は小林さんがここまで勝手口にこだわりを見せていることが意外だった。
これまでもリハビリ中に「勝手口から出入りすること」の便利さについて何度も聞いていたが、それでも玄関から出入りすることにしようと提案した時には「仕方がない」とあっさり認めていたからだ。
「まぁ、小林さん。玄関使うという話で今日まで進めてきたので、とりあえず勝手口はやめておきましょう?」
少し沈黙が私の発言で終わった。
この時、小林さんの私を見る目は完全に失望した者を見るものだった。
私みたいな若輩者でもここまで露骨にそんな目をされたらわかる。
(え?さっきまで和やかだったじゃん!なんで?)
その時の私は半分パニックになっていた。
ただ、今ならわかる。私は娘さんの意見、つまり安全第一の提案ばかり支持するので、小林さんからすれば“話の通じない人”認定されてしまったのだろう。
「うん、まぁ、わかりました」
こうして歯切れの悪い感じで家屋調査は終わった。
それから1週間後、小林さんは退院していった。この1週間はあの失望した目で見られることもなく、これまで通りのリハビリの時間を過ごしていた。
小林さんが退院した翌日、体調不良から復帰した山田くんは出勤するなり私のところに来て、小林さんの件について謝罪しにきた。
「全部任せる形になってすいません!小林さん、無事に退院したんですね?」
「うん。でも、最後に一悶着あったの」
「なんです?」
「やっぱり勝手口使いたい、みたいな空気になって。で、娘さんがキレるという…」
「あーそうなんですか。あの土間のところで女子会をよくしてたって言ってましたからね」
「そうなの!?」
私はそれについて初耳だった。勝手口は便利だから使ってる。近所の人たちも勝手口から入ってくる。聞いてたのはただそれだけ。
「らしいですよ。土間のところが少し広くなってるから、勝手口からみんなが入ってきて家の中までは上がらず、そこで座ってお茶してるって言ってました」
(この山田っ!それ教えといてよ!)
不条理に山田くんへ怒りが湧いてきたが、そもそもそれを聞き出せていなかった私が悪かった。
少なくとも、家屋調査の日に小林さんの想いにもっと寄り添っていればよかったのに、“安全”という大義名分の下、娘さんの意見に肩入れしたのは自分自身だ。
「それでか。やけに勝手口にこだわってたのは。勝手口からの人の出入りを遮断しちゃうとその女子会すらなくなると思ったのかもね」
小林さんにとって土間と勝手口は、ただの動線ではなく、人との繋がりを持つとても“意味のある場所”だったのだ。
(ごめんなさい、小林さん。わかってあげられなくて)
この経験を糧に、“意場所”を守る、作る、理学療法士になろうと私は心に誓った。
おわり。