写真家だった僕。

画像1 僕は普段あまり過去の事は話さないのですが、現在ラジオパーソナリティのタマゴみたいな活動をしている僕が、今から20年以上前、20代前半の頃に何をしていたかというと、東京で写真を撮っていました。福岡の写真学校を卒業後、都内の某写真スタジオでアシスタントの仕事をしていましたが、諸事情で長く続かず(2箇所くらい職場を変わりました)、辞めた後、都内のライブハウスでライブ写真を撮りまくる活動を始めました。
画像2 誰に頼まれたわけでもなく、ただ自分から、勝手にカメラを持ってゲリラ的に写真を撮っていました。この時期の僕はノイズ/アヴァンギャルド系アーティストに興味を持っていたので、その種のアーティストのライブを中心に撮っていました。高円寺20000Vや蒲田studio80あたりが根城だったと思います。そうしているうちに、当時のアンダーグラウンドミュージックの重要レーベル、アルケミーレコードのJOJO広重さんと面識を持ち、販促用のカレンダーに写真を使って頂いたのが、初めて僕の作品を世に出せた機会だったと思います。
画像3 山口の片田舎から出てきた当時の僕は、物凄く嬉しかった思いがあります。この頃から僕は「”NOISE"photographer」を自称し、名刺も作って、更に色々な場所に写真を撮りに行くようになりました。学生時代に親に買ってもらった、CanonのEOS 55のみを持って。
画像4 当時よく出入りしていた、池尻大橋のmovement space Gambettaと言う地下スペースで、一夜限りの個展兼ライブイベントを主催した事もありました。当時はPAの知識も何もなく、自宅アパートにあった家庭用ベースアンプと借りてきたアンプで演奏してもらった事が、恥ずかしくも懐かしい思い出です。写真は全て通常のLサイズで、床に裏返して並べると言うインスタレーションまがいの事をやりました。
画像5 僕の撮った写真の中で、一番世の方に見て頂いた事のありそうな写真は、大友良英さんのこの写真だと思います。確か新宿シアターPOOで撮った写真だったと記憶しています。この写真は、大友さんのアルバム「ANODE」の帯にも使われ、他にもインディーズマガジンなど、様々な媒体で使って頂いていたと思います。
画像6 2000年代には、YBO2の北村昌士さんのところでスタッフという名のお手伝いみたいな事をやっていて、ライブハウスに電話してブッキングしたり、その他今では話せないような(笑)色んな経験をしてきました。あの時期に撮った写真は、この「大蜩琳/DEIJCHU-LING」と言う作品の裏ジャケに記憶されています。
画像7 北村さんのところのスタッフを辞めた後は、「OVERGROUND」と言うミニコミ誌を作っているスタッフと知り合い、外部写真家として、様々な現場で写真を撮らせていただくようになりました。
画像8 一番思い出深いのは、やはり「横浜ジャズプロムナード2002」の取材だったと思います。ハン・ベニンク、シカラムータ、渋さ知らズオーケストラ等、色んな演奏会場を回りました。渋さ知らズのバンマス・不破大輔さんのインタビューにも同行させて頂きました。
画像9 数年前、この年のジャズプロムナードにも参加していたSAX奏者の林栄一さんのライブを見るために、横浜まで行った事があります。このライブから既に15年は経っていたはずです。林さんに「僕はあの時、このフェスの取材に同行していたんです」とお話しすると、非常に喜ばれていました。その時の記事のページにサインを書いて頂きました。
画像10 代々木公園で行われたフリーパーティー/レイヴ「春風」の取材も大きなトピックだったと思います。元々テクノ/クラブシーンに大いに興味を持っていましたが、このイベントを通じて、このシーンの強度の強さを実感した覚えがあります。
画像11 普段は中々見ることのできない、企画会議の取材にも同行しました。大型レイヴの企画会議ってどんな現場なんだろうっていうのを、間近で見る事ができたのは貴重な経験だったと思います。
画像12 その後も単発的に、ライブ取材に同行しました。今は無きワールドミュージック専門誌「LATINA」にも、シカラムータのライブレビューで僕の写真が載っています。
画像13 約5年間、東京で写真家として活動してきましたが、25歳になった時点で、キッパリ写真は辞めました。理由としては「元々写真はあんまり好きじゃなかったのかもしれない」と言う実感があったからです。ですが、当時僕が撮っていたライブ写真のネガ/フィルムは、今でも大事に保管しています。「命の次に大事」と言う注釈もつけて(笑)。いつの日か、また何らかの形で当時の写真を発表できる時が来るまで。

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