ノリアキ「だれかおれをすきになれ」の歌詞考察

年月が過ぎ,ノリアキというアーティストがいたことを知る人は少なくなってしまった。しかし,いまなおYouTubeのMVにはコメントが投稿されつづけるなど,根強い固定リスナーがいることは明らかである。

ノリアキというアーティストについては各々調べていただきたいが,彼の数少ない作品の中の一つである「だれかおれをすきになれ」の歌詞について,数年の年月を経て私の中で考えがまとまりつつあるため,ここに残しておく。

noteというサービスが100年後まで残っているかはわからないが,いつか新たにノリアキを知った人がこの考察にたどり着き,ノリアキについてさらに深く考えてもらえるきっかけを残すために,そして彼が存在していたという痕跡を一つでも多く残したいがために,私は書こうと思う

歌詞考察

この歌は「愛の歌」である。その愛は恋愛の愛かもしれないし,人類愛のような愛かもしれない。その愛を求めた等身大の,歌なのである

「けむくじゃらのコリーにサンダル持って行かれちまった ドントレットミーダウン」
けむくじゃらのコリーとサンダルのエピソードは,ノリアキがこの曲のMVをアメリカで撮影した時の実話である。しかしただの実話を歌詞に組み込むだろうか?ここでいうけむくじゃらのコリーとは,可愛らしいものの象徴,つまり,ノリアキにとって「好きになってほしい相手」を暗喩しているように思う。サンダルとは足のことであり,つまりノリアキは「相手」に足を持って行かれ,立ち尽くしているのではないだろうか。

「おれは死んじまったヤドカリに祈った ドントレットミークライ」
ここで立ち尽くしたノリアキは近くで死んでいたヤドカリに自分を重ね,祈りを捧げる。ドントレットミーダウン,ドントレットミークライ,つまり落ち込むな,泣くな,と自分に言い聞かせるように祈っている。

「魂が燃え尽きて灰になるまで夜と踊った」
ノリアキはそのまま海岸で,心が燃え尽きてしまいそうになる限界まで,夜まで,自分に言い聞かせたのか?奮い立たせたのか?心の揺れが感じられる。

こうした,寂しい物語からこの歌は始まる。

「誰か俺を好きになれ 誰か俺を好きになれ」
この悲痛な叫びはタイトルにもなっている。あくまで他人本位なのである。好きになってもらおうとする努力はあまり感じられないが,これは後述する歌詞でも現れており,無力感にさいなまれているのである。

「傷だらけのマッチ棒 スカンジナビアの夢 Why don't you love me つまずき転がってここまできたのさ」
スカンジナビアとマッチ棒,とくれば連想されるのは「マッチ売りの少女」の童話である。少女はマッチ棒を売るが,ノリアキは「愛」もしくは「自分」を売り歩いているのではないだろうか。そしてそれは,傷だらけなのである。だからこそ,「誰か俺を好きになれ」なのだ。誰か俺を買ってくれ,愛してくれという叫びがここにある。つまずき転がってここまできたのさ,というところから,それは相当長い間,彼を悩ましている問題なのだろう。

「胸の傷がしとどに疼くだけだがや(夢の中でも偽るだけだから) Wht don't you love me だれかだれかだれかおれをLove me」
いきなりの名古屋弁だが,おちゃらけているわけではない。この物語の主人公が名古屋あたりにいることがここで示唆される。ノリアキは山形生まれのチェリーボーイであり,大学は筑波大学なので名古屋との縁は浅そうであるが,この歌の主人公はそうであるというだけの話である。作詞をした古谷氏は名古屋生まれであることが,この歌詞を生み出したのだろう。
ここで新たな視点,つまりこの物語の主人公をノリアキと私は置いて書いてきたが,実は古谷氏の胸の内を歌ったものである可能性が見えてくる。だが,ノリアキにもその気持ちがなかったとは言い切れず,むしろ歌声から彼の悲痛な叫びは聞こえてくるほどであるので,両者の考えは一致しているのかもしれない。
胸の傷が疼くというのは,振られたり愛されなかった,もしくは嫌われたことに対するトラウマがあるのだろう。夢の中ではそれも忘れて幸せかもしれないが,そんなものは偽りであると断じている。

「寝ぼけづらであおるオレンジジュース バスタオルでくるんだドンペリニオンピンク 東へもっともっと進むカモン カバンを持って Don't let me go 夜明け前のバスに乗り込み片手でツルを折った」
ここから2番の歌詞である。夜明け前のバスで東へ向かう。理由は明示されていないが,おそらく「おれをすきになってくれる」人を探しに行くのではないだろうか。名古屋の東といえば東京であることから,古谷氏の上京を表しているのかもしれない。夜明け前のバスなので早起きであり,寝起きにオレンジジュースを飲む。その対比のようにドンピンが描かれており,それはバスタオルでくるまれる。東へもっていくのだろうか?バスタオルにくるむということから,割れないようにカバンにいれているのだろう。もしかしたら巡り会う人へのプレゼントを想定しているのかもしれないし,東で会う予定の人がいて,渡すのかもしれない。片手でツルを折る器用さ,手持ちぶたささを表しているようだが,折り鶴は祈りの象徴でもある。ここにも,彼の他人への祈りや神頼み感が現れている。行動力はあるが,愛してもらうための努力は苦手のようだ。

「湿った暁のロード シベリアの導火線 Why dont' you love me 新しい髪型を君に見て欲しいだけの俺なのさ」
見てもらうためだけに東へ会いにいっているのか,それとも言い訳か。ツルと対比し,ここでは彼の人間関係の不器用さが描かれている。
 夜明け前の湿ったロードとは反対に,乾燥したシベリアの導火線のように,つまり彼の心は冷えきっていて感想しており,導火線だけがあるようだ。乾燥しているのだから簡単に火はつくが,それをつけてくれる相手がいないことを表しているのだろう。

「目の奥が不思議としばたくだけだがや(誰の心も過ぎ行くだけだから) Wht don't you love me だれかだれかだれかおれをLove me」
 東へいっても,もしくはおそらく地元にいてもどこにいても,誰の心とも通い会えない。みな,自分のもとからすぎさっていく。だから,目の奥がしばたく,涙がでそうになる。読み取りやすい歌詞だが,名古屋弁であることで本音の感じが強まっている。東へ行っても心を通わせられず,自然と目の奥がしばたいてしまうよ,といったところか。

「おしえておくれ階段をのぼる順番を 教えておくれ愛される条件を 教えておくれ人生のコントロール方法を」
階段を上る順番とは,恋愛のステップ,もしくは人間関係の構築の方法。恋愛でいうとABCであったり?そうした誰もが自然とやるであろうコミュニーケーションや交際の順番がわからない,そして愛される条件もわからない,という叫びである。そこから飛躍して,人生自体をコントロールする術を求める。彼にとって今の人生はうまくいっておらず,それが交際関係にあると考えているのだ。
 心理学者のエリクソンはアイデンティティの発達には恋愛が寄与すると考えたが,まさに恋愛をうまくできない彼はアイデンティティ,つまり人生の方針にも悩んでいるのである。
(どこかでみた考察は,この部分の歌詞において,階段を上る順番や愛される条件,人生のコントロール方法を一緒にみつけてくれる相手が欲しい,という意味であると解釈しておられたが,広義では私の考察も似たようなものであると考えられる。)

残りの歌詞は「傷だらけのマッチ棒〜〜〜」の部分と同じであるから省略させていただくが,見ていただいた通り,愛を渇望するもその方法がわからないある一人の人間の悩みを切実に歌った曲であることがみてとれる。
この曲は発表されてからもう11年にもなるが,現代にこそ刺さる歌ではないだろうか。青年は情報社会でいろんな情報を得られるが,実際に愛されるための普遍的な方法などは存在しない。自分で経験し,学んでいくものだ。

この曲の主人公は常に「だれかおれをすきになれ」と叫んではいるが,具体的に彼が何を相手に与えるかは言っていない。でも,そういうものなのである。自分の人生のやるせなさとか,いかんともしがたさ,それを「愛してくれる人」の存在一つで変えられると,どこかで信じているのかもしれない。

愛を歌ったラブソングは数多いが,愛されないものの悲痛な叫びを歌った曲はあまり聞いたことがない。あったとしても,ネタっぽくされていたりすることが多いように感じる。
そのなかで「だれかおれをすきになれ」は,チープでラフでノイジーであるが,どこか甘酸っぱく青春を感じるようなトラックに乗せて,情緒的な歌詞を紡いているのである。よく,ノリアキの作曲センスは唯一無二であったのではないかと,1つしかないアルバムを何度もリピートしながら考える。新曲などこの先一つもでないであろうが,だからこそ彼のカリスマ性は衰えを知らない。リアルな音楽がここには残り続けているのだ。

この考察ノートがネットの海に放たれ,消えることのないデータとして人類が滅んだ後も残り続けることを祈りながら,筆者は筆を置こうと思う。

よければ知らない人もぜひノリアキの曲を聞いてみて欲しい。ユーチューブでも,Apple Musicでも。リアルとは何か,フェイクとは何か……彼が人類に残していった問いかけは,この先も議論され続けるだろう。

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