無題

ひさしぶりのホラー創作もどき

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 うちは比較的新しいマンションで、まぁまぁ部屋も広く、いわゆるファミリー層向けとしては良いほうの部屋だったんじゃないかな、と思う。
 ただ両親と弟、4人家族で暮らすには少し手狭な感じもしてて、いや一応私の部屋と弟の部屋はあったんだけど、両親はだいたいリビングか寝室を根城にしてるような感覚だった。
 私が20歳、弟が18歳のある夜、両親は私と弟をリビングへ呼んだ。
「家の事なんだけど」
お母さんが口を開く。もしかして独立しなさいとか言われるのかな。弟も大学に上がったし、それぞれ一人暮らししなさい、みたいな?直感的にそう感じた私は、実家の居心地の良さを惜しみつつも先回りしてお母さんを遮った。
「一人暮らし?いいよ、頑張る」
「いや、違うんだ」
答えたのはお父さんだった。
「父さんたちが引っ越そうかと思って。ほら、お前たちは部屋もあるから引っ越し大変だろ?お前たちはとりあえずここで続けて、また独り立ちするタイミングで父さん母さんは戻るかどうか考えようって話になったんだ」
なんだか変な感じ、と思った。自室を片付けるのが大変といったようなくだりは合理的だけど、わざわざ2人が出ていくことないのに。
「実はもう物件の目星はつけてある。ここの家賃は引き続き父さんが持つから、おまえたち、姉弟で力を合わせてやっていくんだ」
 そこからの展開は早かった。あっという間に両親は少ない荷物を段ボールに放り込んで、家財道具なんかほとんどそのままに引っ越してしまった。
 「たまには帰ってくるから」なんて、実家を離れる子供が言うようなセリフに、私は言い知れぬ違和感をおぼえつつも、夫婦ふたりゆったりと生活したかったのかなと自分を納得させた。
 両親の車を見送りながら、弟に「あんたちゃんと家事やんなさいよ」と言うと「姉ちゃんこそ、男連れ込むなよ」となんとも可愛くない返事が帰ってきた。

 意外にも姉弟ふたり暮らしは順調だった。やはり家は少々乱雑になったし、それぞれ外食やら弁当も増えたが、まあこんなものだろうといった感想だった。
 両親のいない生家はなんとなくがらんと寂しい。弟は私と違って友達も多いため帰りの遅くなる日が多く、私は否応なしに家でひとりで過ごす時間を堪能するはめになった。
 その日は課題を終わらせたあと、スマホを弄りながら少しウトウトしてしまって、ふと時計を見るともう日付を回る頃だった。
「あいつまだ帰ってきてないんだ……」
重い頭でお風呂に入らなきゃ、と考える。食事は済ませたものの、お風呂は寝る前に入ろうと思ってまだだった。
 シャワーでいいやとだるい身体を起こし、なんとかお風呂にたどり着くと、おもむろにシャンプーを手に取る。しばらく頭を洗っていると、がちゃりと鍵の開く音がした。
「遅かったじゃん」
風呂場から呼びかけるが応答がない。玄関と脱衣場は隣同士とはいえ、やはり扉を阻んでもいるし聞こえないものかな、と考える。そのまま足音はリビングへ行ったあと、もう一度こちらへ向かい、脱衣場のドアが開く。
 手を洗いにきた弟に、わざわざもう一度声をかけてやることもなく私はシャンプーを流した。ふと、コンディショナーがもう残り少ないことに気づく。
「ねーえ、そこにリンスの詰め替えあるでしょ?取ってくんない?」
 洗面台に向かう弟の気配に声をかける。応答はない。イヤホンでもさしたままにしているのか。ため息をついた私は内側からお風呂のドアをコンコンコン、と強めに叩く。
「ちょっと。聞こえてないの?リーンース」
弟の影が動く。

バン!

 影は、思いっきりお風呂のドアに向かって身体を貼り付けてきた。反射的にビクッと身体が跳ねる。なにしてんの、と声を張り上げかけた私は、磨りガラスに押し付けられたソレを見て絶句した。
 弟ではなかった。いや、それ以前の問題だった。変なのだ。
 ふつう、磨りガラスに押し付けた顔を反対側から見ると、鼻や頬など出っ張った部分がムニュッと潰れて不細工に映る。しかし、私の見た顔にはそれがなかった。まるで、ガラスの向こう側に写真か、コピー用紙に印刷された絵のように、のっぺりとした顔があったのだ。
 その顔は、なんとも形容しがたかった。老若男女どれにでも見えるような。目だけがくりくりと動いて、他は薄ら笑いの表情のまま固定されている。髪は確認できず、お面のようでもあった。
 身体全体でドアに突進してきたはずなのに、顔以外は磨りガラスに映らず、まるで顔だけが宙に浮いているようだった。
 事態に頭が追いつかず硬直する私の耳に、ふと玄関扉の開く音が入る。
「おーい、姉ちゃん鍵開けっ放し」
弟の声だった。
 次の瞬間張り付いていた顔はフッと消え、弟の「あれ?風呂入ってんの」という声が近づく。私は堪らず風呂場のドアを開け、驚く弟に縋り付く。
「ね、ねえ今━━」
「いうないうないうないうないうないうないうないうないうないうないうないうな」
はっきりと耳元で声がした。抑揚のない、幼い女の子のような声。息ができなかった。ただ圧倒的な恐怖と、今あったことを弟に話したらろくな事にならないという確信だけがあった。
 今の声すらも弟には聞こえなかったらしい。キョトンとした顔の弟になんでもないと告げた私は、「すぐ上がるからそこに居て」となんとも情けないお願いをすることしかできなかった。

 なるべく1人になりたくなかった。アレはなんだったのか。今まであんな体験をしたことはなかった。私は霊感なんかとは無縁だったし、ホラーも嫌いな部類だ。なぜ急に。
 弟が私に続いてシャワーを浴びると言い出した時はやめた方がいいとつい止めたが、「なんでだよ、やだよ汗かいたし」と笑って弟はそのまま行ってしまった。
 自室に戻る気になれず私は小さくなって、リビングで深夜番組を垂れ流しながら座っていた。
 弟のシャワーの音が聞こえる。かなり音を通しやすい我が家は、シャワー音の他にも、弟が風呂の中で見ているであろうYouTube動画の音声とか、時折あがる弟の笑い声まで私の耳に届けた。
 少し安心した私は、先程の疲れが優しく襲ってくるのを感じながら、またうつらとソファに沈みこんだ。

─────いけない、また寝てしまった。
 深夜番組はとっくに終わって、放送休止中にありがちなどこかの風景と優しい音楽だけが流れ続けている。
 時計は2時を少し回ったところを指しており、私はもういい加減ベッドへ行こうとテレビを消す。
 ふと、ザー、というシャワー音が聞こえた。まだお風呂にいるのか?ありえない。さてはシャワーを浴びながら寝落ちでもしたか。動画の音声は聞こえてこない。水道の無駄遣いをしやがって、と私は眠い目を擦る。
 ははっ、と弟の笑い声が聞こえた。寝ていない?ただの長風呂?いつも15分程で行水を済ませるあいつが?
 いよいよ様子を見に行こうと立ち上がった時だった。

「っはは、あははははははは」
ざばばばばば、ばしゃばしゃ、ばしゃ。

 引き攣ったような笑い声と、水遊びでもしているかのような一際大きい水音。ばしゃ、という音を最後に、風呂場は完全な無音となったように思えた。
 急いで風呂場のドアを開けると、誰もいない。さっきまで誰かがシャワーを使っていたような熱気もなく、冷たく乾燥した浴室内に、ぱた、ぱた、とシャワーヘッドから滲む水が床を打つ音だけが響く。
 ふと、何かがおかしい、と気づいた。ぱたぱたという水滴の音は、シャワーからではない。
見渡すと、浴室の天井、換気扇の格子の隙間から水が滴っているのだ。
 なぜこんなところから、と思った次の瞬間、格子が外れけたたましい音を立てて落ちる。

目が離せなかった。

弟が、先程の変な顔と同じ表情で。

ぱっちりと目を開いて、薄ら笑いで。

きょろきょろと頻りに瞳を動かしながら。

換気扇のあるはずの空間、四方数十センチの正方形から顔だけをこちらに出しているのだ。

 もう泣きそうだった。ひぃ、とか細い声しか出ない私の方を、弟の飛び出そうな眼球がきょろりと捉える。
 そして弟は、抑揚のない女児のような声で一言、

「ちょうだあい」

と言うや、ずるんと顔を引っ込ませて消えてしまった。
 そこまでで私の意識は限界を迎え、ぷっつりと意識を失ってしまった。

 家に警察が来た。
 なんでも、昨夜ひと晩中バタバタバタバタと足音がうるさいと通報が入ったのだとか。インターホンの音で飛び起きた私がもう藁にもすがる思いでドアを開けると、厳しい顔をしたおじさんに注意された。
 身に覚えがない、それより弟がいなくなった、昨夜の顔は何、いろんな言葉が頭の中をぎゅうぎゅうに占め口を開こうとした瞬間
「いうないうないうないうないうな」
また声がする。
 硬直する私を怪訝そうに一瞥して「ではこれで」と帰っていく警官たちの背中を目だけで追いながら、携帯が鳴っていることに気づく。
 父の番号からだったが、電話口の声は知らない人の声で、両親が自殺したことを告げた。それを聞く私は悲しいとかそれ以前に、

ああ、2人は知ってたのかな────
あの顔のこと。

そう、妙に納得してしまうのだった。

風呂場から、弟のかみ殺すような笑い声がした。


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