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選択的θ-487GPEr再取り込み阻害ナノマシン

「先生、マジで大変です!ナノマシンを埋め込んだ患者たちが異常行動を起こしています!」

午前中の診療を終え、ひと息ついてた私のもとに、血相を変えて飛び込んできたのは、看護師のタカハシだった。その腕には、先ほどつけられた引っかき傷であろうか、外傷が目立っていた。

「異常行動とはどういうことだ?彼らが暴れたりすることは想定内だろう。一旦落ち着いて、状況を詳しく説明したまえ。」私は、普段から患者達の異常行動を見ていたので、先ほど淹れたコーヒーを飲みながら、彼女にひと息つくように言った。彼女はよくトラブルを起こし、慌てて私の部屋に飛び込んでくることが多かったので、今回も大したことではないだろうと、たかをくくっていた。
そんな私に、彼女は大声でこう叫んだ。

「患者たちが窓を開けて飛び降りているんですよ!他の看護師たちが必死に止めてますがこのままだと…!」

私は驚愕した。このナノマシンが開発されて約3年が経ったが、そんな症状は一度も発生していなかったのだ。異常事態が発生してることを理解した私は、患者たちのいる病棟へと走って向かった。


20XX年。人類は、脳に対する理解を深めたことで、飛躍的な進歩を遂げた。電子機器と脳の接続が可能になったのである。それにより、人々は電子機器と脳を直接接続することで、ありとあらゆる情報を気軽にインプットすることができ、より豊かな生活を手に入れた。
そんなときに、MS社が新しい電子機器を開発した。それは、脳に埋め込む形のチップだった。それを用いれば、眼球に直接画面を表示することができ、より利便性が上がるというものだった。また、聴覚や嗅覚にも作用することができ、MS社が用意した大規模なサーバーと接続すれば、感覚の共有も容易にできるということで、多くの人間が大金をはたいて、チップを埋め込んだ。

しかし、人類はまだ完全に自分たちの脳を理解していなかった。人類の脳には当時発見されていなかった「θ-487GPEr」という成分が存在した。(なぜこんな読みにくい名前なのかはわからない。セロトニンとか、アルコールとか、もっとわかりやすい物質名をつけるべきだと私は思うのだが。)

これは、本来なら人間の脳に何ら影響を及ぼすことはないが、外部から五感に対して電気信号を与えることで活性化し、本来の機能を保護するために、人間の感情や欲求を制限するものであった。
この成分が発見されたのは、チップが発売されてから半年後のことだった。そのときにはすでに手遅れで、チップを入れた人間の大半は、感情や欲求を表に出すことがなく、無気力で常に下を向いているような人間ばかりであった。
また、チップと「θ-487GPEr」の相性が悪かったのだろうか?その当時、原因は不明だが、「θ-487GPEr」が活性化した人間には、希死念慮が発現することも判明した。これにより、人々はうつ病のような状態になった。
それによって、精神科医が不足し、抗うつ薬の生産も追いつかなくなってしまった。
私もその当時のことは覚えている。8月の異常気象とも言える暑さの中、人々が下を向きながら無言で歩くさまは、まさに燦然たる死の行脚であった。

そんなときにチップを開発したMS社が、「選択的θ-487GPEr再取り込み阻害ナノマシン」(通称:STRM)を発売した。
MS社は、「θ-487GPEr」について研究し、なぜこのような症状が出るのかも突き止めていた。人間の脳は、機能を保護するために「θ-487GPEr」を一度別の成分に変換して、タンパク質と合成することで、より多くの「θ-487GPEr」を生成し、再度取り込んでいるらしい。
それによって、人間の感情が制限され希死念慮が現れることが分かった。
そして、SSRIの応用で「θ-487GPEr」の取り組みを阻害することで、症状が改善するということがわかり、それをナノマシンで管理しようということになったのだ。

しかし、このナノマシンはチップを埋め込んでいない人間たちにに危険視されていた。人間をこんな状況に追い込んだチップを作った会社だ。もちろん信頼なんかされないはずだ。しかし、チップを埋め込んだ人間は一斉に群がった。恐ろしい光景だった。
MS社と提携してる病院に我先にと駆け込む人間たち。他者を蹴落とすことに抵抗がなくなり、大金をはたいてナノマシンを埋め込む。世の中に、チップを埋め込んでいない人間はほとんどおらず、さらに、その異常性に気がついたのは、埋め込んでいない人間の中でも、ほんの僅かでしかなかった。

私は、仕事の効率向上のためチップを入れようとしていたが、事前の健康診断で異常が見つかり、チップを入れることができなかった。
今回ばかりは自分の虚弱体質に感謝した。チップを入れたら人では無くなる。多分、チップで何かしらの操作がなされているのだろう。彼らは何かに操作される人形になってしまった。

私は今、そんな人間を助けるためにMS社とは提携せず、一部のチップを埋め込んでいない人間たちと協力して、病院を設立し、チップを埋め込んだ人間の診察をしている。もちろん、MS社から圧力をかけられているが、運がいいのだろうか。そこまでの影響はなかった。


病室の前につき、勢いよくドアを開けると、そこには凄惨な光景が広がっていた。
「おいおい…。こりゃなんだよ。」
病床を仕切るカーテンは破られており、壁や床には血痕が付着していた。しかも、尋常ではない量だ。2〜3人の看護師も倒れている。そして、この部屋にいた患者たちは全員忽然と姿を消していた。
そういえば、彼らは飛び降りようとしていたな。そんなことを考えて、窓の方に近づいた。すると、上の階から患者が降ってきた。そして、そのまま大きな音を立てて地面に叩きつけられた。私はそれをまじまじと見つめてしまった。
地面には、他の階にいた患者も含め、十数人が倒れていた。
もちろん、全員絶命しているのだろう。誰も動くことはない。
彼らは全員チップを手術で取り除いた人間だ。しかし、まだナノマシンは除去することが出来ていなかった。私は気がついてしまった。彼らは全員ナノマシンに操作されて自殺をしてしまったのだと。

彼らは、チップを取り除く手術を受けたはずだった。
私達はチップを取り除く術式を確立させ、その術式を多くの患者に行い、その後ナノマシンも取り除く予定だった。その矢先にこれだ。

私は言葉を失った。MS社はナノマシンを用いて他者を文字通り人形にすることができるようになったのだ。
それは、過去に見たあの死の行脚よりも恐ろしいものだった。サーバーから信号を送るだけで人間を殺せるようになってしまった。

もしかしたら、ナノマシンには知られたくない何かしらの情報が隠されているのかもしれない。私は、もしかしたら大きな陰謀が裏で動いているんじゃないか。人類を操作し、彼らにとって都合の良い社会を形成しようとしているのかもしれない。そんなことを考えるようになっていた。本来ならありえないことだ、しかしそんなことを考えないとこの状況を理解することができなかった。

そして、私は失望した。自分自身に。
彼らを助けるために病院を作ったのだ。そんな病院でこんなことが起きてはならない。なのに私はまともにナノマシンのことを理解しようとせず、彼らのチップ除去に集中していた。
私は医師失格だ。

そんなことを考えていたら、ポツポツを雨が降り出した。
彼らの死体を無情にも濡らす雨。
そんな雨を見つめながら、私はタカハシにこう指示した。

「応援の看護師を呼んでくれ。一部の人間は病室の清掃。そして、彼らを安置室に移動してやってくれ。せめて、美しい状態で家に帰してやろう。」

どうであれ、私の目論見は崩れ去った。
多分、この病院にいる患者は全員死んだのだろう。

そのとき、一人の患者のパソコンが開きっぱなしになっている事に気がついた。ふと気になり、それをのぞいてみると、「【社外秘】選択的θ-487GPEr再取り込み阻害ナノマシンの機能説明」と書かれたレポートだった。

私はこのPCを持って、大急ぎで自室に戻った。
なぜこんな物があるのか?そんな疑問は一切持たなかった。
これさえあれば、今の悪循環を止めることができるかもしれない。そんな甘いことを考えていた。

しかし、私が持っていったそのパソコンにはMS社のロゴが入っていたのだった。

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