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どん兵衛と母の思い出

最初の頃に書いた記事を書き直してみました。
良かったらお付き合いいただけると嬉しいです♪




母のこと

韓国ドラマ風にいうと若い頃の母は、恋に仕事に大忙し!友達も多い人だった。

みんなに好かれていて、故郷に帰っても母の周りに人が集まってくる。

18歳という若さでお腹を切って私を出産し、すぐに弟を出産したので苦労や葛藤も多かったと思う。

さらに甘えん坊の泣き虫な弟がいたので、私の甘えるスキがあるはずもない…



朝ごはんといえば

母は、朝起きられない。
起きても、朝ごはんを食べるタイプの人ではなかった。


大きな白いビニール袋が上の方にかけられていて、いろんなカップ麺が入ってる中から、朝はそこからどん兵衛を取ってくれる。

私はミニで、弟はいつも特盛。

テーブルに大きなポットが常備されていて、再沸騰のボタンを押すだけ。

蓋をめくるという簡単なことが、子供の頃は難しかった。
めくり過ぎたら蓋にならないし、ちょっとだけめくるとスープの粉を入れるときにこぼれるからだ。
そうなると、なんとも味気ないどん兵衛になってしまう。


お湯を注いだら、少し待ってから蓋をめくって混ぜ混ぜする。
蓋の上に苦手だった甘いお揚げをペチャっと乗せると、弟がいつの間にか食べてくれる。

学校で朝ごはん何食べた?って友達との会話の中でどん兵衛って答えると、キレイな目をまん丸にして驚いてた。
でも、なぜか羨ましそうだった。
たぶん普段食べないんだと思う(笑)

そんな朝食でも大きな病気もなく、私も弟も成長することができた。

しかし、高1のとき風邪をこじらせ、母とタクシーで病院に向かうことに。

車いすを持ってきてくれた、天使のような看護婦さんが登場したにも関わらず、「歩けるやろ?」と母。

できることなら、乗りたい。天使に押してもらいたい。

なのに、私のエゴが歩けると言ったのである。

こういうときに肝心なことは、普段から甘えておくべきだ。
私はいつでも強い子ではない。


なんと、即入院。


原因不明で個室に隔離という事態になった。


先生にもっと早く来てくださいと、母は言われてしまったようだ。
迷惑をかけたくなくて、家で寝ていたいと言ったのは私なのに。

それから、意識は飛び飛び。


40度超えては薬で下げての繰り返し、2週間くらいは点滴だけの栄養で生きのびた。

40度超えると蛍光灯がムニョーンって波のように揺れる( ゚Д゚)

意識もうろうの中、唯一楽しめる現象だった。

この期間は、ほとんど記憶がない。

お年頃には恥ずかしい座薬

何とか少しづつ熱も下がってきて、リバースしながらも食べられるようになり、回復の兆し。

熱が上がってきたので、座薬いれますねーって素敵な看護婦さん登場。
38度ともなると、ぼーっとするけど意識はしっかりしているから普通に恥ずかしい。

「自分でできるやろ?」と母

いや、できるけどさぁ熱上がったらリバースするしさぁ…ブツブツ

また、わたしのエゴが自分でやると言った( ;∀;)

看護婦さんが病室を出た後、「お母さんやったろか」って八重歯をキラキラさせながら私を見てくる。

そんなんもっと嫌やわ!

それから、まさかの試練が始まったのだ。

熱が下がると、妙に空腹を感じ食欲が出て食べれるのだが、数時間で熱が上がり、猛烈な吐き気をもよすのだ。
吐くときに腫れたリンパが激痛。
しかし、止められないので相棒の点滴と一緒にトイレに駆け込む。

うがいをして、セルフ座薬。

その繰り返し。繰り返し。繰り返しなのだ。

深夜であろうと、ひとりで、耐えた。耐えた。耐えるしかないのだ。

今思うと、まるで拷問ではないか。

できないことは、素直にできないと言え。

入院中に自分で押したナースコールは、点滴の逆流のときだけだ。

しかし、看護師は看護のプロなので深夜の私の様子に気付いて秒で座薬も済ませ、布団も整え点滴のチェックと抜かりない。

恥ずかしがってる暇は1秒もなかった。

カッコ良すぎる。

私も看護婦さんになりたいと夢みることはなかったけれど、本当に尊敬するお仕事だ。


お粥イヤイヤ期

毎食、白いお粥。

祖母がご飯のお供とか作って持って来てくたのに、普段できないわがままを堪能した。

何が食べたいか聞かれて私は迷わず、どん兵衛と答えたのである。

大好物なわけがない、あんなに家で仕方なく食べてるのにそんなはずはない。
でも、思い浮かんだのは奇しくもどん兵衛だった。

もっとあるやろ…って母も祖母も思っただろう。

どん兵衛を食べてると、先生が病室に入ってきて何故か焦る。

先生は、食べられるものがあれば何でも食べていいですよーって言ってくれてホッとした。

おそらくかなり痩せていただろう。


髄膜炎など、いろいろ心配されていた中で検査結果は、酷いおたふくだった。

やっと面会禁止がとけ、女性のみ面会可能だったので何で?って不思議に思っていると…

シーンとした空気感の中、主治医がわかりやすく説明してくれた。


キンタマがどーのこーのって。


主治医からまさかの言葉。もう、説明が頭に入ってこないよ。


(おたふくになったことがないと、精巣炎を起こして不妊になる可能性があるそうです。)

それにしても、高1女子の前でキンタマって。

不適切にも程があるわ!

主治医が病室から出た後は、母と目が合いドン引きからの失笑。


甘えることの大切さ

母は意外と見てくれていた。

いつも使っているポーチや雑誌など身の回りの物を持って来てくれて、病室の窓から見える場所を、私の友達に教えたりと、喜ぶことを知っている。


入院期間一ヶ月くらいで一生分甘えることができた。

ほとんど、高熱で意識とんでたけれども(笑)

母を独り占めできた感覚は後にも先にもないだろう。

病室の窓から、小さく見える母を探す。
来るのを待って、帰るときも小さく見える母を見送った。
何度か気づいてくれて、とてもとても嬉しかったことを思い出した。

私は、こんな幸せな思い出を消し去っていのだ。
高1。遠い昔の話だ。そりゃあ忘れる(^_^;)

ぶつかる事のほうが多かったから自然に消えたのかもしれない。
お互い口が強く、本当の気持ちを隠して相手のダメな部分を攻めてよく喧嘩になった。

脳はイヤな記憶をわざわざクローズアップして主張するように出てくることがある。


母とは最後までわかり合えることはなかった。

母が亡くなって、もう12年。

入院していたことを思い出したのは、今から3年くらい前になる。


救いのどん兵衛

いい歳になり体のことを考えるようになってからは、カップラーメンを食べなくなっていた。 

ある時、体調が悪く精神的にも辛くて食欲もなく、ずっと食べていなかったどん兵衛が目に映る。
誰かが買ってきていたようで、すぐにパッケージを破り遠慮なくいただいた。

5分も待てなかった。

美味しくて美味しくて!
こんな美味しかったっけ?

涙がポロポロ流れてきて、止まらなかった。
入院していた頃の記憶がいっきに蘇ってきた。

母の声すらも思い出せないほどに年月がたっていたけれど、鮮明に思い出したのだ。

気付くとスープまで飲み干していた。



母親の存在は偉大

何歳になろうと母親という存在は唯一無二。

今でも、夢に登場する。

ぶつかる事も多かったし、許せない感情もあったけれど、結局のところ大好きの裏返しなんだと思う。

ふらついて立てなかったときは、もういないのに出てきた言葉が、お母さん助けて…だった。

甘えさせてもらえないんじゃなく、甘えなかったのは私なのかも。


母が亡くなって、一生分後悔した。
2年半死んだように生きた。

毎日、何で死んだん?何で死んだん?ってひとりごと。

こんな思いは誰にもしてほしくない。



もしも、今お母さんと険悪な状態だとしたら
お互いが生きているうちに、ほんの少しだけ考えてみてほしい。
別れはいきなり来る。いつかなんてない。永遠もなかった。

親子という事実は永遠。

毒親とか、親のくせにとか娘なんだからとか親ならやって当たり前とか、心配したり不安に思ったりイライラ頭で考えちゃうけれど、内側の自分は真逆なんじゃないかと考えてみてほしい。

わかり合えないという現実が邪魔をしているだけで、結局のところやっぱり大好きなんだと私は思う。



退院当日

何が食べたいか聞かれて、どん兵衛!とはさすがに答えなかった。
お粥三昧だったので白いごはん🍚をリクエスト。
家に帰って炊きたての…🍚ではなかったけれど、帰りにファミレスに連れて行ってもらった。

元気になったことが嬉しかったのか、私がハンバーグセットをペロッと食べたことをのちに、母は何度も笑いながら話していた。

入院生活から日常にもどり、2年後には一人暮らしを始めた。

母とは、それからもぶつかってばがりだった。

早く大人になりたい私は、大人イコール自立だと錯覚していたのかもしれない。

親に頼っちゃいけない甘えちゃいけないと強く思うほどに、本当の自分とは、どんどんかけ離れたいったのだ。

その頃の本当の自分は甘えん坊で、頼りないガキなのに。

母も、人生が思い通りにならなくて、ピリピリしてお互いにひどい言葉を言い合ってしまった。

完璧なんてない。


今、思うことは無理やり大人ぶって迷惑をかけないようにするより、本心を伝えて素直に甘えてる方がはるかに可愛い。


おりこうさんのフリは、なんの役にもたたない。

そうしないと、聞き分けの良い子、理解してくれる人になってしまうからだ。


望んだ対応をしてくれなくても、自分の気持に嘘をつかずに素直に出すことで、自分自身を大切にできる。

甘えん坊の弟が実際にそうだ。

甘えたからといって全て通っていたわけではないということ。
泣いて甘えて無理でも、たとえ怒鳴られたとしても素直に自分の気持ちを伝えていた。
やんちゃな高校生になっても、帰ってきてすぐオカンは?と私に聞くほどだ(笑)

甘えていたように見えて、自分の思いを表現し続けていたんだと思う。



今でも、時々。ほんの時々。

日清どん兵衛を食べて温かい気持ちになる。

甘いお揚げではなく、シリーズの中で肉うどんが好き♪

そこは素直に書いておくことにしよう(*^^*)

6月は、母が私を産んでくれた感謝の日がある。

お母さんの娘で良かった。

お母さん産んでくれて ありがとう。




そして、最後まで読んでくれて ありがとう。


☆感謝と祝福を☆






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