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ジョジョ5部の根底に流れる「悲しみ」とアバッキオの死とその受け止め方
※はてブ記事の移行です
※3/20改題 ※8/29再改題
人は死んで終わりではない。残された人に意志を残し、受け継がれていくというのが『ジョジョ』のもう一つのテーマなのです。敗北したとしても、誰かが意志を継いでいく。僕はそれを人間の美しさだと思っています
[ジョジョが教えてくれた「人生の忠告」 大切なのは真実に向かおうとする意志]
レオーネ・アバッキオ。いいキャラですよね。
初登場でいきなり主人公に尿を飲ませようとするという奇行をぶちかましてきますが、活躍自体は地味ながら、長身長髪で真っ黒に塗られた唇という鮮烈なビジュアルとともに、任務遂行に対する強い意志と印象的な過去を見せ、最後にはジョジョの奇妙な冒険という作品全体でも屈指の名シーンと言っていい程の劇的な死を遂げます。
アバッキオの死について、冒頭で引用したように作者の荒木飛呂彦先生も「人間の美しさ」であると言及しています。
この死の場面を人生の指針のようにして生きているという人も多いと思います。
この記事はそういったアバッキオの死を上手く感動として昇華出来なかった物狂いによる自己整理のためのものなので、狂人の書いた文章なんて読みたくないという方はページを閉じてください。お疲れ様でした。
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私とジョジョ5部の出会い
私は昨年の春ごろ、アニメからジョジョの奇妙な冒険第5部黄金の風に出会いました。いわゆるにわかでございます。
視聴のきっかけはTwitterで見かけた二次創作作品におけるブチャラティなるキャラクターのキャッチーさに惹かれた事で、しかしあまりアニメ自体好きな方ではないのでそんなに期待はしていなかったのですが、見始めてすぐに心打たれ、涙さえしました。
母子家庭で母親が自分を置き去りにしてよく遊びに出かけ、その母親が連れてきた男に殴りつけられる日々を過ごすという、主人公ジョルノの生い立ちが全く自分のそれと同じかつ、その描写が非常にリアルなものだったからです。
この時点で私はジョジョ5部の世界に没入し、「これはただの娯楽作品ではない」と捉えるようになりました。
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ジョジョ5部という作品の哲学性
実際荒木先生は5部について
「テーマ性がぐっと深化した」(※JOJOmenonより)
と述べています。
それまでの部においてもジョジョには「人間賛歌」という一貫した命題がありますが、5部がより哲学的に深められた作品となっているのは間違いないと思います。
では、5部における主たる哲学的テーマとは何なのか。
これは荒木先生自身が5部の連載終了後繰り返し述べている、「生まれてきた悲しみ」というものだと思います。
ジョルノは実父が存在せず母親に顧みられず義父に虐げられるという、抗いようのない「悲しみ」を生まれ持って背負っています。
ジョルノというキャラクターについては、インタビューにて、
「ジョルノはディオの子供で忌まわしい生まれなんです。他の登場人物より生きている悲しみが、生まれた時から上乗せされているというか。」
「第五部から第七部にかけての、生きている悲しみを描くというテーマは、ジョルノの造形から始まっているんです。」
(※クイック・ジャパンVol.75より)
と語られています。
この「悲しみ」に共感し、その「悲しみ」と向き合う物語である事を期待するのは、間違った読み取り方ではないでしょう。
5部の根底にあるのは人生に対する悲観主義なのです。
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「悲しみ」に対しての結論
しかし、ジョジョという漫画は人間賛歌の漫画です。人間を肯定する事が目的の漫画です。
そのジョジョがどうやって「人間が生まれてきた悲しみ」などという悲観に満ちたテーマにけりをつけるのか?
ただ「生まれてきた事、生きている事は悲しいんだ!」で終えていいはずがないし、荒木飛呂彦はそんな作家ではありません。私もそんなものは期待していませんでした。
結果として5部で「悲しみ」に対して荒木先生が示したアンサーは、
「主人公たちは「運命」や「宿命」を変えようとはせず、彼らのおかれた状況の中で「正しい心」を捨てない事を選んだのです。正義の心の中にこそ「幸福」があると彼らは信じて。」(※文庫版あとがきより)
「死んでも何かを伝え、残された者に受け継がれていく」「結果として死んでも、その過程で勇気を手に入れたり、心が成長したら僕の中でハッピーエンドなのです。」「何かを残すことは、これまで人類がやってきた、非常に尊いこと。」(※ジョジョの奇妙な名言集Part4~8コラムより)
というものでした。
素晴らしい結論だと思います。
これらはまさにアバッキオの死が描かれた「今にも落ちてきそうな空の下で」のテクストでも語られている事柄でしょう。
素晴らしい事だとは分かっているのです。
この答えが悲しみを抱えた人間にとっての救いである事も分かっているのです。
悲しみを抱えていても、その悲しい運命を否定する必要さえなく、正しい心を持ち続ける事こそ幸福で、それは死してなお受け継がれていく。美しく尊く希望に満ちています。
ところが私はこれを受け入れられませんでした。
5部アニメの放送が終わった後深い精神的ショックにより寝込んでしまい、毎日泣きむせび、仕事どころか日常生活もままならない状態に暫く陥ってしまいました。
アバッキオを好きになってしまったからです。
私はアバッキオというキャラクターの死を受け入れられなかったのです。
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アバッキオというキャラクターについて
アバッキオは5部のテーマである悲しみと、その悲しみを乗り越える美しさを、主人公のジョルノ以上、そしてサブ主人公と言ってよいだろうブチャラティ以上に体現したキャラクターであると個人的に思っています。
荒木先生は、アバッキオの死の話に連ねて
「第五部では居場所のない人間を描きたかったんですよね。もうそこに行くしかないという。」(※2007年11月臨時増刊号のユリイカより)
と言っています。
アバッキオは作中で唯一台詞として己の「居場所のなさ」に触れているキャラクターであり、それは「彼はこの社会で行く所がなく、堕ちに堕ちてギャングとなった。」と書かれているプロフィールにおいても同じです。
彼の人格はその苛烈な言動とは裏腹に(「ただ他人の行動を再現しその間は無防備になる」という彼のスタンドの能力に通じているかのように)非常に受動的で、自らの力で積極的に運命に抗おうとはしません。出来ないと言ってもよいでしょう。
罪を背負い行く所がないのでギャングになり、必要としてもらえるし何も考えずに済むから任務の遂行に命をかけ、能動的に見える船着場でブチャラティについていくシーンでさえも、ブチャラティの行動によって迫られた選択であり、彼が元警官であるという立場を考えれば台詞通り「ブチャラティといっしょの時以外に落ち着けるところはない」からついていくのです。
その結果死ぬとしても「もうそこに行くしかない」のです。
しかしアバッキオはこの時点でジョルノの影響により、根底に持ち続けていた「正義の心」を取り戻しています。
自分の行く先が与えられた運命だとしても、彼は正しい心に基づいて仲間のために行動し、死にます。
そしてその正義の意志は仲間に受け継がれ実を結びます。
まさに彼の人生は5部のテーマそのものを体現しており、美しい話です。
アバッキオを思うならば、そして悲しみを抱えた居場所のない人間に対する希望として、素直にこの美しさを賛美すべきだと思います。
しかし、アバッキオというキャラクターを個人として、一人の人間として好きになってしまったとき、その人生と死を「賛美すべきもの」として受け止められるでしょうか?
好きな人が死ぬというのは、どんなに尊い死であろうと、それはただただ悲しいのです。
生きていて欲しかったと思ってしまうのです。
ましてやアバッキオの人生は決して彼自身が望んだことによって死に向かったわけではないのだから。
アバッキオがただ作中で死を迎えるというだけのキャラクターであれば私はここまで苦しまなかったでしょう。
私は同じようなファンたちと悲しみを分かち合い、傷心を慰められた事でしょう。
しかし、アバッキオの死は明確に作中で肯定されているのです。
それも作品テーマそのものと最も深く結びついたところで。
決して誰にも否定は出来ません。
アバッキオの死は「これでいい」のだと、作品に結論付けられているのです。
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意味付けされる死と個体としての死
「赤んぼ少女」という作品についての論文があります。
[タマミの御霊 -楳図かずお『赤んぼ少女』、鎮魂をめぐる諸問題]
「赤んぼ少女」のタマミというキャラクターの死と、その弔いについて書かれているものです。
この論文を初めて読んだとき、私はアバッキオを思わざるを得ず、冒頭から泣き崩れてしまいました。
君は何をどのように論じても良いが、忘れてはいけないのは、タマミは結局最後に死んでしまうということだ。あるいは、死んでしまっているというところから出発せねばならないということだ。これはこの作品をどのように解釈しようと、決して変えることの出来ない事実だ。この事をきちんと君自身が受け止める必要があるよ。つまり言い換えると、もはや死んでしまった人に対して君にはなにが可能なのか、それが問われているのだよ。
死は一切の終わりであり、不可逆性そのものであるとこの論文は説きます。
これは荒木先生の「人は死んで終わりではない」という思想に真っ向から反するもののように思えます。
どちらの考え方が間違っているというものではないと思います。荒木先生は先に引用した発言において「人類」という単語を使っていますが、人間を人類全体として俯瞰して見たとき、確かに死は残された人々によって意味付けされ、決してそこで終わりはしないのです。
それは死する人にとっても残される人にとっても救いとなります。
しかしそれは死んだ個体を個体として見ないことで出来得ることです。
アバッキオを他の人類から切り離し、アバッキオというかけがえのない唯一の個体として見たとき、その死には「取り返しのつかない一切の終わり」しか存在しません。
先の論文において、「死を個体における出来事としてみること」について「人に替わりはいないということ」という結論が出されているように、私にとってアバッキオはアバッキオしか存在しておらず、誰がその意志を継ごうが、死んでしまえばそれで終わりなのです。
「これでいい」などとは決して言えはしないのです。
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死の肯定と昇華
で、お前は結局何が言いたいのだ、ただ5部の物語にケチを付けたいだけか? と思われる方もいらっしゃるでしょう。
私が5部に不満があるとすれば、それは物語そのものではなくアバッキオというキャラクターの描き方にあります。
まず、彼は主要メンバーの中では悲しいほど地味なキャラクターです。何と唯一戦闘で敵を倒しておりません。クローズアップされる事が少なく、もっぱら登場時のジョルノへのかわいがりと死亡シーンが印象に残ったものとしてファンには語られます。ジョジョ立ちやら個性的な名台詞もありません。それでも彼はキャラが立っていますし、十分過ぎるほど魅力的ですから逆に凄いんですが。
そして死亡後はトリッシュが一度名前を出すのみで、その後は一切特別に触れられる事はありません。チームで一番最初に死亡し、ラスボスに繋がる重要な手掛かりを遺したにも関わらずです。この触れられなさのせいで、読み込みの浅い読者はあの手掛かり意味なかったねなどと言ってしまいます。
こうしてアバ茶というファースト・インパクトを除けば、多くの読者にとってアバッキオというキャラクターは死亡時の感動のみが殊更強く印象に残ります。そして、継承される意志、悲しみに対する救い、その意味付けされた美しさばかりが取り沙汰され、「いい話」として肯定・昇華されます。
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今にも落ちてきそうな空の下で
「今にも落ちてきそうな空の下で」は紛れもなくいい話で、美しい話です。
死なせてしまった相棒と対峙する事で、アバッキオの魂は確かに救われます。
アバッキオの「過去を再生する」能力は、ラスボスであるディアボロの「過程をすっ飛ばし結果だけを残す」という能力ともともと対比になっており、相棒の台詞はその精神性を具象化してくれるかのようです。
生まれてきた事が悲しくても、運命に抗えぬままに死んでしまうとしても、そこに至る意志がアバッキオのように美しければ救われるのだと、この話は私たちに教えてくれます。
それでも、私はアバッキオに死んで欲しくはなかったし、アバッキオの死を肯定も昇華もしたくはないし、彼には生きているときに報われてほしかった。
死後、自らの救いの象徴である相棒に背を向け、真っ先に仲間のもとへ戻ろうとするアバッキオを見る度に、私はひどく悲しくなります。
どうしてこんな子が、どこにも居場所がないほど追い詰められ、「くだらない男」と自分を断じながら、たった21歳で死ななければならなかったのか。
死後に救われたとしても、仲間に意志を残せたとしても、その感動は彼の命に替えられるものなのか。
アバッキオのプロフィールには、好きな映画はスリング・ブレイドであると設定されています。
そのパンフレットの解説に、こんな一文が存在します。
カールは、いったい何のために生まれてきたのだろうか。彼の人生の意味は何だったのか。彼の人生のテーマが、トラウマを何らかの形で解決するということだとしたら、あまりにも悲しい話でありはしないか。(※スリング・ブレイドパンフレットより「トラウマを癒やすこと」西澤 哲)
私は同じ気持ちをアバッキオに感じます。
たった一度犯した、罰も受けた罪のために社会を追われ、ギャングに堕ちた後も経歴故に未来はなく、それでも必要とされれば命をかけて働き、最後は友のために安息を捨て、損なわれた自尊心を抱えたまま死んでしまい、なおも仲間のところに戻ろうとするアバッキオの人生と死は、私にはあまりにも「悲しい」のです。
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終わりに
ただただ「アバッキオを好きになりすぎてしまった」というだけの話でした。
これだけ人の頭を狂わせるキャラクターを描けるのですから、荒木飛呂彦先生は本当に鬼神のような作家です。
アバッキオの死を悲しむことが正しいと言いたいわけではありません。
ですが、一人でもアバッキオという人間の人生について考える人が増えてくれれば嬉しく思います。
願わくはこの追慕の気持ちが空の上にいる彼に届きますようにと、祈るばかりです。