聖なるズー(まだ途中)
今、巷では性についてのアレヤコレヤが問題になっている。石川優実さんのKuToo運動とか。少し前だと伊藤詩織さんの裁判とか。
幸い私は性的対象でマイノリティーになったことがないし深く傷つく性差別を受けたこともないので、傍観者としての立場にたち、勉強させてもらうような気分で好奇心を携え日々それらの議論を眺めている。
性について考えるきっかけになったのは、ドイツにいる友人を訪ね酒を酌み交わしている時だった。友人は私に「結婚したいと思いますか?」と訪ねてきた。深く考えず「この世の中に母親という存在を増やしたいから、結婚はすると思う」と答えた。友人からの返答は、まさに青天の霹靂だった。
「それ差別ですよ! あなたはもっとフェミニストだと思ってました!」
私には自分の発言が、どうして差別的なのか、そして私はフェミニストだったのかどうか、全部が分からなかった。そして面白い、と思った。
そこから友人と議論し、性について語ったのがきっかけだった。私よりも性について考えていた友人は今までの人生の中で他人と恋愛関係になったことがなく、自分の性的対象が分からないと言っていた。異性を好きになってきた私は友人をどう見たら良いのだろう、性とは何だろう。
そんな事があって、私は性に対する情報を集めた。性が差別に繋がることを知ったし、そしてそれが変えられるものだということも知った。
ただそれでも、この世の中に母親を増やしたいという発言が差別的なのかは分からないし、フェミニズムが何かも分からない。もっと性について知ろう、語るのはもっと情報、知識を得てから。そんな時に出会ったのが
『聖なるズー』 著者 濱野ちひろ
だ。
第17回開高健ノンフィクション大賞受賞作。犬や馬をパートナーとする動物性愛者に迫る作品で、著者自身は性暴力に苦しんだ経験を持っている。
上に書いた通り私は犬や馬に恋愛感情、性的興奮を覚えたこともない。恋人から暴力を振るわれたこともない。ただ意識せず、性においてマジョリティにいた側の人間だ。下品な好奇心があるだけの。
そんな私にでも、この本は刺さる。自分の中にある世界を、何かがちぎれる音と共に広げられていく。誰かの読書の楽しみを奪いたくないので内容に触れるのは極力避けるけれど、私が見つけた真実を一つだけ載せる。
ーこのように考えれば、人間同士の関係であってもキャラクターとは異なるパーソナリティが生じていることに気づかされる。誰かにとって、ある誰かが特別なのは、共有した時間から生まれるその人独特のパーソナリティに魅了されるからだ。それが揺らぎ続け、生まれ続けるからこそ、私たちはその誰かともっと長い時間をともに過ごしたくなる。そして同時に、その人といる間に創発され続ける自分自身のパーソナリティにも惹かれる。
パーソナリティとは直訳すると人格や個性だ。キャラクターを日本語にするなら性格や性質。
この文章を読んだ時、思い浮かんだのはドイツにいた、同性が好きなのか、異性が好きなのかに悩む友人だ。すぐにこの本を勧めようと思ったけれど、踏みとどまった。
性の問題は、Twitterを見たら分かるようにとても繊細で、容易に相手の触れて欲しくない部分に届く。触れられた相手は激昂するか、深く傷つく。悪意がなくても怪我をさせればそれはもう武器だし、悪意があると相手に勘違いさせてしまうとそれはもう戦争だ。
だから私はもっと理解する。言葉を探して模索する。友人のパーソナリティが好きだし、友人と話す自分のパーソナリティが好きだから。そしてまだ見ぬ友人のような関係になれる人々に出会うために。
この文章が、どなたかに読まれ、その方が聖なるズーを読み、私のパーソナリティが好かれることを願って、とりあえず、終わり。