鰯の頭も信心から
節分に鰯の頭を魔除けにするという風習がある。主に関西方面の風習だろうと思う。関東でやっているのはあまり聞かないように思う。
「鰯の頭も信心から」という言葉は、信じる気持ちがあれば、鰯の頭であっても魔除けとしての効果があるという意味だろう。
キリスト教の牧師さんなどは、「信仰義認」というキリスト教用語を冗談めかして説明するときにこの言葉を使うことが多いようだ。
細かいことはおいておいて、イエス・キリストを「信じること」が重要で、それさえあれば、救われるというのが信仰義認。
「信ずるものは救われる」も同じ意味。
宗教学者のジョナサン・Z・スミス(Jonathan Z. Smith)は、
「宗教にデータというようなものはない。データは取れない」
と言った。
宗教についてのデータはないということではなく、「宗教」そのものについての固有のデータはとりようがないということだ。
つまり、宗教というものはそのものとしての実態が確かではなく、誰かが「宗教だ」と考えれば、それは宗教になるので、事実としてのデータは取れないというようなことである。
つまり、なんでも宗教になる。
宗教は定義をするのが難しいといわれるのは、そういうことでもある。
あるミュージシャンが「ロックンロールが僕を救った」と言ったとしても、ロックンロールは普通、宗教にはならない。
それはロックンロールを宗教と呼んで、宗教にした人がいないからである。
しかし、誰かがそう呼び始め、人に受け入れられれば、ロックンロールも易々と「宗教」になる。ロックンロールに救いを求めてレコードやCDを買うこと、何か特別な会員としての登録料を払うことと、宗教団体への献金は紙一重とも言える。
「愛は地球を救う」かどうかはともかく、ある時期から、年に一度の大規模な募金活動に胡散臭さが染みついてしまったのも、そこに「宗教」がもつ負のイメージに似たものを多くの人が感じるようになったからと言えるだろう。
そこにあるのは何なのか。
そこに人々は何を感じているのか。
宗教学はそういうものを突き詰めようとする分野でもある。
安倍元首相暗殺、統一教会問題で、久しぶりに宗教にまつわるモヤモヤが日本の社会を覆っている。無宗教を標榜することを好む日本社会は、宗教に対して無防備であることの現れでもあるんだろう。
カルト教団による被害を根絶するのはオレオレ詐欺と同じくらい難しい。
宗教学はその防衛手段のきっかけを提供することも含んでいる。