ヴェルハウゼン『古代イスラエル史序説』(プロレゴメナ)序文(1)

【以下に掲載していくのは、ヴェルハウゼン『古代イスラエル史序説』(プロレゴメナ)の序文です。わかりやすさを目指して、余計な字句を割愛したり、やや強めの意訳をしているところはありますが、基本的に文章そのものをまるまる飛ばしていることはありません。頭から順々に訳していって、2000字を超えて区切りがいいところになった時点でアップロードするという形で続けていく予定です(原著はJulius Wellhausen, Prolegomena zur Geschichte Israels, 1883/初出1878年)】

【〔 〕でくくった部分は訳者による補足や説明です】


序 文
 
ここでは「モーセの律法」の歴史における場を論じていくことになる。

より正確に言えば、モーセの律法は古代イスラエルの歴史の出発点と言えるのか、むしろ、ユダヤ教の出発点ではないのかという問いについての考察である。

つまり、モーセの律法はアッシリア人とカルデア人〔バビロニア人〕による国の滅亡を生き延びた宗教共同体の出発点なのではないのかという問いについての考察である。

旧約聖書という大きなまとまりはバビロン捕囚以前の時代を物語っているだけでなく、その時代に年代づけられると一般に考えられている。〔バビロン捕囚は前6世紀にイスラエルのユダ王国がバビロニアに滅ぼされ、支配階級をはじめとする社会の上層部がバビロニアに捕え移された出来事〕

この見方によれば、そのまとまりはユダヤ人が過去の遺産から救い出した古代イスラエルの文献の残存ということになる。

また、ユダヤ人はそれに基づいて、独立した知的生活が崩壊していく中を暮らしていたということになる。

独断的な〔キリスト教〕神学においては、ユダヤ教は単なる空虚な割れ目であり、人はその上を旧約聖書から新約聖書へと飛び越えたのだとされる。

こうした考えが修正されている場合でも、正典となった聖書を受け取ったユダヤ教は原則として、聖書の製作には関わっていないというような考えがまだ支配的である。

しかし、この原則には例外がある。旧約聖書の第二区分と第三区分〔「預言者」と「諸書」〕はこの原則に近いものとはいいがたい。

「諸書」(Hagiographa)のほとんどは明らかにバビロン捕囚以後のものだし、捕囚以前に成立していたとはっきり示せるものはそこにはない。

ダニエル書はマカベア戦争と同じくらいの時代に年代づけられ、エステル記はおそらく、それよりもさらに遅いかもしれない。〔マカベア戦争はセレウコス朝シリアからの独立戦争。前167−160年。ハスモン家(マカベア家)が率いた〕

預言書は、かなりの部分がヘブライ王国の滅亡以後のものであり、それと関連する歴史にまつわる文献(正典の「前の預言者」)は、今日われわれが手にしている形のものとしては、前560年あたりまでは生きていたはずのエコンヤの死後に年代づけられる。〔エコンヤはユダ王国末期の王、ヨヤキン。バビロンに連行され、列王記下の最後に、釈放され、「王の食卓」につくことを許された〕

より古い資料が用いられていたと考えて、士師記、サムエル記、列王記の大半の部分はそのまま書き写されていたとしても、五書はおくとしても、旧約聖書のうち、捕囚以前の話は全体の半分ほどにあたる。

それ以外の部分はその後の時代に属し、一度萎れた植物が弱々しい芽を出したようなものであっただけでなく、イザヤ書40章〜66章〔いわゆる「第2イザヤ」「第3イザヤ」〕と詩編73編という新しい活力と創造性の産物も含んでいる。

***

ここで「律法」〔モーセ五書。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記〕に関することに入っていくことにしよう。

旧約聖書の大部分について、著者や作成年代についての直接的な情報は何もない。

その内容の分析から派生しうるデータを用いることで納得させられるような真実になんとか辿り着けるのではないかと期待させる情報さえもない。

イスラエルの歴史の流れに関する資料から得られる情報から推論されることについても同じである。

しかし、その関連とされる歴史時代がバビロン捕囚をもって終わるということは、それがエジプトからの脱出の物語に始まるということと同じくらい確かなことであるとするのが慣わしとされてきた。

一見、この想定は正典の歴史によって正当化されるように見える。

エズラ、ネヘミヤの影響の下、最初に正典になったのは「律法」であった。

「預言者」はかなり遅くなってから正典となり、「諸書」が最後であった。

これらの書物が正典とされるようになった年代的な順からすれば、およその年代として「預言者」は「諸書」の前に年代づけられ、さらに「預言者」の前に「五書」があったとする推論は不自然なことではない。

「預言者」が大部分において捕囚より以前なのであれば、「律法」も同じように捕囚以前であろう。

しかし、こうした比較のやり方は「諸書」と「預言者」の比較においては信頼できるとしても、「律法」とその他の部分の比較という場合には全く頼りにならない。

正典性という考え方そのものがもともと「律法」と関連しており、それはゆっくりと徐々に他の部分にも広がっていったとされている。

律法はユダヤ人共同体の「大憲章」(マグナ・カルタ)として導入する公的にして正式な行動(ネヘミヤ記8−10章)によって、正典としての妥当性が与えられた。

〔英国の〕大憲章の場合、その正典としての性格(つまり、法的な性格)はそのものとしてあったわけではなく、単に結果としてそうなったというものであった。

つまり、時間的な差があったはずなのである。

その期間、すなわち、それが成立した年代とそれが公的なものとして認可されるまでの間には長い期間があったかもしれない。

一方、「律法」の場合、正典的な性格ははるかに本質的なものではあったが、深刻な問題はモーセの律法が捕囚よりもかなり前の時代のものであるとされ、また、何世紀も経ってから、その成立とは全く異なる環境において、効力をもつようになったということであった。〔ヨシヤ王の時代までモーセの律法は知られていなかったとする列王記下22章を参照〕

少なくとも、公の書物として認知された文書の集成が、そのような性格を主張していなかった他の書物よりも前にそのような認知を得ていたと証明されることはない。〔五書が「預言者」と「諸書」よりも古いことは証明できない〕

(つづく)

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