ヴェルハウゼン『古代イスラエル史序説』(プロレゴメナ)序文(3)

(↓ はじめから読む)

この驚きは、捕囚後のユダヤ教において、その時まで隠されていたものでしかなかったはずのモーセ主義〔モーセの宗教〕が突然、あちこちに卓越したものとして現れたということで完全なものとなる。

今や「聖書」は高次の生活の基礎とみられるようになっており、ユダヤ人は、クルアーンの言葉を借りれば、「書物の民」〔アフル・アル・キターブ/啓典の民〕となっていた。

祭司とレビ人たちが中心的な地位を占めている聖所があり、その周辺に天幕を張る会衆としてイスラエルの民がいる。

焼き尽くす献げ物、贖罪の献げ物などの祭儀、清浄の規定、禁欲の規定、祝祭と安息日などが律法に規定されたものとして厳格に遵守される。

それが生活の根本的な問題とされている社会になったのである。

第二神殿時代の共同体と古代イスラエルの民〔ヨシュア記から列王記までに描かれている人々〕を比較すれば、古代イスラエルの民の方がモーセの宗教からはるかに離れた存在であることはすぐに理解できる。

古代のユダヤ人自身もその遠さに完全に気づいていた。

士師記、サムエル記、列王記の改訂は捕囚時代の末期に着手されたが、その改訂は一般に考えられているよりも遥かに大きなもので、列王記の時代全体が異端的なものとして非難されている。

後代のある時点で、過去にますます神聖な壮麗さを帯びさせなければならなくなったので、過去を審判の席につかせるよりも、正当性という性格を纏わせることにしたのである。

歴代誌が示しているのは、なんとかして過ぎ去った時代、モーセの神政政治がユダヤ人の根本的な制度であったとされる時代の歴史を扱う必要があったということでなのある。

* * *

以下では、当座の問題は想像上のものではなく、現実のものであり、切迫したものであることを説明していくことだけを意図している。

それを示すことにするが、それを解決することは決して容易なことではない。

律法の歴史的な位置についての疑問は、こうした簡単な単語の連続によって表現することさえ許さない。

律法とは、それを五書全体と理解するとしても、文書的な単位などでは全くなく、単純な歴史上の産物ではないからである。〔注において、事典的な「五書」の説明との比較が指示されている〕

ペイレリウス(Isaac Peyrerius. 17世紀の司祭)とスピノザの時代以来、この特筆すべき文学的産物の複雑な性格を認識した上での批判はあった。

アストリュック(Jean Astruc. 18世紀)以降、成功がなかったわけではないが、その元来の要素を解きほぐそうとする労苦が重ねられてきた。

そして、現在では、解決したと見なせる成果が多くある。そのうちのいくつかを挙げてみよう。

モーセの五つの書とヨシュア記はひとつのまとまりであり、父祖の物語、出エジプト、荒野の彷徨いからなる物語の本当の終章はモーセの死ではなく、約束の地の征服である。

つまり、文学的な視点からすると、「五書」ではなく「六書」といった方が厳密ということになる。

この全体から、申命記は本質的に独立した法律の書であるとして、最も簡単に分けられる。

〔※ のちにG・フォン・ラートを中心とするドイツ旧約神学はこの考え方を重視した。アブラハムへの約束がヨシュア記の征服によって土地を得ることによって成就し、大団円を迎えるというわかりやすい捉え方だが、「申命記史書」という旧約聖書の構成理解とは真っ向から対立する〕

さらにその残りについて、そこから容易に分けられるのは、いわゆる「基本文書」(Grundschrift)である。

かつては「エロヒーム文書」とも呼ばれていた部分である。

モーセの時代まで神に言及するときに「エロヒーム」という語を用いていたことで説明される。

エヴァルトEwaldによる命名だが、「元来の書」として、創世記においては上書きがくり返されていた。

数字や寸法、決まりごととの繋がりが目立っており、文章のスタイルとしては堅苦しく学者的である。

また、特定の語をくり返し用いる傾向があり、古いヘブライ語には見られない表現が好まれている。

この特徴は〔旧約聖書の〕どの文書よりも強く、それゆえに、容易に見分けられるのである。

その基盤となっているのは、レビ記と付随する箇所、出エジプト25-40章(32-34章を除く)、民数記1-10章、15-19章、25-36章である。

〔このあたりは一般に「祭司文書」と呼ばれている部分の話〕

それゆえ、そこには主として法的な文章が含まれ、また、契約の箱の礼拝とそれに関することが語られている。

形だけは歴史的なものとしての体裁をとっているが、歴史は法的な材料を並べられている枠組み、歴史を装う仮面に過ぎない。

大部分において、物語の筋書きは極端に細く、創世記から出エジプト記まで切れ目なく続いてきた時の流れを継続させるためにしか働いていない。

時の流れが十分な形で現れるのは他の関心事が役割を演じているときだけである。

例えば、創世記においては、モーセによる契約締結の前章としての三つの物語、それぞれがアダム、ノア、アブラハムの名前と結びついている物語が語られている時にだけ、時の流れが現れている。

この根本的な文書が申命記とともに分けられた後に残るのがヤハウィスト的な歴史文書である・・・・・。

(つづく) https://note.com/pscript/n/nd58c5aef7b0d

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