ノブレス・オブリージュの精神を大切にする、インターナショナルスクール
長引くコロナ禍、
全ての事情が一変しました。
通常であれば、ほとんどのインターナショナルスクールが、
シンガポールという地の利を生かして、近隣諸国に
エクスカーション(excursion)へ出かけるのですが、
今年はそれも叶いません。
エクスカーションとは、
日本語にすると、「小旅行」「野外調査」と訳されるのが一般的です。
日本の修学旅行に似ていますが、目的がはっきりしているというか、学習に重きを置いているのが、シンガポールの各インター校が実施しているエクスカーションといえるのではないでしょうか。
特に、いわゆる名門校と呼ばれている学校のエクスーカーションの中には、日本人からすると"なに、それ!"というものもあります。
インドの僻地に家を建てる
これは、ある学校が日本の中学生に当たる学年で実施したエクスカーションです。
水道も電気も通じていないインドの僻地に家を建てるって、
びっくりですよね。
エクスカーションの期間は、
日本の修学旅行のように2泊3日とか短いものでは無く、
最低でも1週間単位のものがほとんどです。
また、エクスカーションだけが学ぶ場ではありません。
まずは、シンガポールで現地ヘ着いたら行う作業の
プラン作りから始めます。
そうです。
ここから実践が始まるのです。
現地で既にそのプロジェクトに参加してる人たちと連絡を取り、
事前調査を行ったり。
そして、彼等のためにどんな事がエクスカーション中にできるのかを話し合って、プロジェクトを進めていきます。
もちろん、全てのエクスカーションが、ハードなわけではありません。
通常は、いくつかの選択肢があります。
インドの僻地での家の建設は、かなり難易度が高いものです。
もっと難易度の低いものもあります。
ご両親と話し合って、自分にあった選択をする事になります。
選択肢は複数。
みんなが、同じじゃ無くって良いんですよね。
ただし、どのエクスカーションでも、
はっきりとした目的、ゴールがあります。
エクスカーションと日本の修学旅行との違い
現在では、かなり内容も変わってきたと思いますが、昔の日本の修学旅行って、完全に卒業前の思い出作りのお泊まり旅行と言う印象しかありません。
一応課題は決められているものの、やっぱりメインは思いで作りですよね。
そういえば、コロナ前にはシンガポールにも多くの修学旅行生が日本から来ていました。
2年ほど前に、日本へ帰るときのフライトが、
日本からの修学旅行生の帰路と同じになった事があります。
そのとき、びっくりしたのは、
出発ゲートにいたほとんどの生徒さんが
某有名紅茶メーカーの手提げ袋をぶら下げていたことです。
(ちなみに、このメーカーは今年から日本に実店舗を進出させました!)
子供達同士のお土産には、高価すぎるし、
紅茶のお土産を高校生にというのは?なので、
多分、お母さんとかに頼まれたのでしょう。
でも、学校側もそれぐらいのお小遣いを許しているという事ですね。
そんなところを見ると、やっぱり日本の修学旅行のコンセプトはあまり昔と変わっていないという事でしょうか?
そういえば誰かへのお土産って、これまた日本人特有の概念らしいです。
特に欧米人は、自分自身への記念に何か購入すると言うことはあるかも知れませんが、
近所の人へのお土産という発想は無いそうです。
シンガポールで社員旅行に行った時、みんなお土産らしきものを買い込んでいたので、東南アジアは欧米に比べると、少し日本に近いかも知れません。
ああ、どんどんタイトルから遠ざかる。
話を元に戻します。
エクスカーションで何を学ぶのか?
エクスカーション先に選ばれる国は、ほとんどが発展途上国。
欧米やシンガポールと比べると、まだまだ貧しい国々です。
そこで、学生達が何を感じるのか?
自分たちの日常と、大きくかけ離れた世界がそこはある。
そんな事を生徒達は感じ取るはずです。
多分これが一番の狙いなのではと、勝手に推測しております。
世界は決して平等では無い
日本では、何かというと平等という言葉が用いられますが、
本来、人間も動物も絶対に平等なんてあり得ません。
日本やシンガポールに生まれれば、
少なくとも最低限の教育は受けることができるし、
餓死することは、ほぼ無いでしょう。
(最近日本の事情が変わってきているみたいですが、それでもやっぱり自然災害等の飢えで命を落とす人はまれですよね。)
でも、世界を見渡せば、生まれてから平和というものを知らない子供達がいます。
学校へ行くことができない、住むところすら無いという自分ではどうすることのできない環境下で暮らしている子供達がいます。
そこには、圧倒的な不平等というものが存在するのです。
ノブレス・オブリージュとは?
ウィキペディアで調べると、
「高貴さは(義務を)強制する」を意味し、一般的に財産、権力、社会的地位の保持には義務が伴うことを指す。
とあります。
わかるようでわからない。
要は、持てるものは持たざるものへの義務があるという事です。
フランスの貴族(領主)は領民を養う義務があったという事ですね。
ここから転じて、今では、富めるものには義務があるという観念になっています。
欧米人の間には、これがかなり普通に浸透していると思います。
意外なことに東南アジアの国々でも、富裕層の人たちは施すことが普通と考えています。
この考えは一歩間違えると、間違った方向へ行ってしまう危険性もあるのですが、そこに踏み込むと話がまとまらなくなるので、今回は、ノブレス・オブリージュを肯定すると言う趣旨で進めていきます。
一般的には、ボランティア活動や寄付と言う形で実践されることが多いですね。
GAFAの創設者とかが基金を設立し、多額の寄付をするのは、
まさにノブレス・オブリージュの精神に沿った考えがあるからなのでは無いでしょうか。
日本だと、有名人とかが寄付とかをすると偽善者呼ばわりされてしまう。
極論をいれば、別に偽善者だって良いのです。
そのお金が正しい用途に使われれば………
日本にどうしてノブレス・オブリージュの精神が根付かないかと言うと、
これはやっぱり日本の教育にあるんだと思います。
みんな同じが一番良い。
そしてみんな平等だ。
そこには貧富の差なんか無い。
と言う、現実からかなり離れた考え方を、
小さな頃からすり込まれてしまうからでは無いでしょうか。
みんな平等なんてあり得ないのに………
やはり、小さな頃から、
グローバルな考え方に、なじんで行くのは大切な事だなって思います。
世界は不平等であふれているけれど、そこから活路を見いだし、
自分らしく生きていく。
自力では貧困から抜け出せない子供達に、
手を差し伸べる事ができる。
そんな子供達が日本で、沢山育ってほしいなと思います。
だから、多感な時期に異文化の中に身をおくことができるのであれば、
是非とも経験してほしいです。