絵に描いたとしても、時とともに、何かが色褪せてしまうでしょう
祖母が亡くなった。96歳。97歳の誕生日を少し先に控えていた。
その祖母とは十数年会っていなかった。何年会っていないのかさえ覚えていないほどだ。
その理由はというと、痴呆が進行してしまい、孫はおろか自分の娘さえわからない状態になっていたからで、「忙しいのにわざわざ見舞わなくて良い」という言葉に甘えてしまっていた。
それでも会いに行くべきだ、という批判もあると思うけれど、少し遠くの施設で暮らしていた、会いに来た人が誰かさえわからなくなっている祖母のところにあえて出かけていく理由も特にないまま、容態が良くないという連絡を受けたのだった。
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そして、何年かぶりに、いくつかの思い出の引き出しが開かれた。
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祖母はフィリピンで生まれた。曾祖父が仕事の関係でフィリピンに滞在していたらしい。
幼少期をフィリピンで過ごした影響からか、東南アジアの食べ物や文化に馴染みが深かった。そういうわけで、祖母の家で初めて食べさせてもらったマンゴーの鮮烈な味を覚えている。当時の僕にとっては、それは祖母の家でしか食べられないものだった。
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祖母の家の1階にはピアノがあり、僕は習ったこともないのだけれど、叔母から何か弾いてみたら、と言われたような記憶がある。でもピアノは調律が狂っていて、所々おかしな音がした。
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祖母の家には車で行くこともあったけれど、電車とバスを乗り継いでいくこともあった。バス停の先はカーブになっていて、帰りのバスはそのカーブを回り込みながらバス停に入ってくる。僕の記憶では、そのバス停が「田舎のバス停的なもの」として記憶されていて、小説なんかを読んで田舎のバス停を想像すると、概ねそのバス停をもとにしたイメージが浮かんでくる。
たぶん、実際のバス停はそこまで田舎的でもないのかもしれないけれど、もはやどこまでが記憶で、どこからがイメージなのかもわからない。
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祖母の家の近くには駄菓子屋があり、祖母からいくばくかの小遣いをもらって駄菓子屋にいくのも楽しみだった。
ミニコーラ30円、ソーダ餅30円、ココアシガレット30円…みたいな。
その駄菓子屋もいつのまにか閉業していた。
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祖母との思い出といえど素朴な、なんでもないものしかない。
そして、祖母の死を目前にして、数年ぶりに引き出しの奥から引き出されてきた記憶である。
より鮮明に思い出されるのは幼少期のほうの記憶で、中学生以降の思い出となると、正直なところかなりあやふやである。
絵に描いたとしても
時とともに
何かが色褪せてしまうでしょう
永遠はいつでも
形のない 儚い幻影
- Drawing / Mr.Children
記憶が徐々に薄れていく、ということはやはり物悲しいことであるように思う。なのでこのnoteに書き留めることにした。
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容態の悪化(といっても病気をしていたわけではなく、衰弱が進行している)の連絡を受けて、その週末に介護施設に顔を見に行った。
そして、そのまま数日を経て亡くなり、葬儀も終わった。
僕としては、やはり生きている間に最後に顔を見られてよかったように思う。眠っていたからこちらのことはわからなかったと思うのだけれど、急にたくさんの来客があって騒がしかったからか、微かに反応した時もあったらしい。
それが祖母にとって生理学的な意味合い以上の意味を持っていたのかはわからないけれど、とにかく亡くなる前で良かった、と思う。